宋名臣言行録 / 後集巻五・吕誨
公幼孤自力為學家於洛陽性沉厚不妄交遊洛陽士人往往不之識
新字:公幼孤自力為学家於洛陽性沈厚不妄交遊洛陽士人往往不之識
書き下し
公幼くして孤なり。自ら力めて學を爲す。洛陽に家す。性沉厚にして妄りに交遊せず。洛陽の士人往往にして之を識らず。
現代語訳
呂誨は幼くして父を失った。自力で学問に努めた。洛陽に住んだ。性質は落ち着いて重厚、みだりに人と交わらなかった。洛陽の士人は、しばしばこの人を知らなかった。
解説
二十七字です。名門の孫でありながら、地元で知られていませんでした。**性質は落ち着いて重厚、みだりに人と交わらなかった。洛陽の士人は、しばしばこの人を知らなかった。**当時、名を知られることは仕官の道でもあります。それをしなかった。この巻の呂誨は、このあと欧陽脩を弾劾し、王安石を弾劾して自ら職を去ります。誰とも近くならなかったことが、そのまま誰でも弾劾できる立場になっていました。
この章句が説くこと
公幼くして孤なり自ら力めて学を為す洛陽に家す性沈厚にして妄りに交遊せず洛陽の士人往往にして之を識らず孤独学
関連する章句
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