宋名臣言行録 / 後集巻五・唐介
王荆公與公同為參政議論未嘗少合荆公好馮道以其能屈身安人如諸佛菩薩之行一日於上前語及此事介曰道為相易四姓事十主此得為純臣乎荆公曰伊尹五就湯五就桀者志在安人而已豈可亦謂之非純臣也公曰有伊尹之志則可荆公為之變色
新字:王荆公与公同為参政議論未嘗少合荆公好馮道以其能屈身安人如諸仏菩薩之行一日於上前語及此事介曰道為相易四姓事十主此得為純臣乎荆公曰伊尹五就湯五就桀者志在安人而已豈可亦謂之非純臣也公曰有伊尹之志則可荆公為之変色
書き下し
王荊公と公と同じく參政と爲る。議論未だ嘗て少しも合わず。荊公は馮道を好む。其の能く身を屈して人を安んずること諸佛菩薩の行の如きを以てなり。一日、上前に語此の事に及ぶ。介曰く、道は相と爲りて四姓に易わり十主に事う。此れ純臣と爲るを得んやと。荊公曰く、伊尹の五たび湯に就き五たび桀に就く者は、志人を安んずるに在るのみ。豈に亦た之を純臣に非ずと謂う可けんやと。公曰く、伊尹の志有らば則ち可なりと。荊公之が爲に色を變ず。
現代語訳
王安石と唐介はともに参政となった。議論は少しも合ったことがなかった。王安石は馮道を好んだ。その、身を屈して人を安んじることが、諸仏や菩薩の行いのようだという理由からである。ある日、天子の前で話がこの件に及んだ。唐介は言った。「馮道は宰相となって四つの姓の王朝にまたがり、十人の主君に仕えた。これで純粋な臣と言えましょうか」。王安石は言った。「伊尹が五度湯王のもとに就き、五度桀のもとに就いたのも、志が人を安んずるところにあっただけです。それをまた純粋な臣でないと言えましょうか」。唐介は言った。「伊尹の志があるならば、それでよろしい」。王安石はそのために顔色を変えた。
解説
五代を渡り歩いた宰相を、どう評するかという議論です。王安石は伊尹を持ち出しました。伊尹も暴君の桀のもとへ何度も行った、志が人を安んずることにあれば同じだ、と。唐介の返しは八字でした。**伊尹の志があるならば、それでよろしい。**否定していません。条件を付けただけです。ただし、その条件を満たしているかどうかは、当人にしか分からない。同じ振る舞いが、志の有無で正反対になる、と言い切って相手に返しました。**王安石はそのために顔色を変えた。**
この章句が説くこと
荊公は馮道を好む其の能く身を屈して人を安んずるを以てなり道は相と為りて四姓に易わり十主に事う此れ純臣と為るを得んや伊尹の五たび湯に就き五たび桀に就く者は志人を安んずるに在るのみ伊尹の志有らば則ち可なり節操弁護
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