宋名臣言行録 / 後集巻五・唐介
出知揚州徙江東轉運使御史吳中復請還公言路時潞公再當國亦言介頃為御史所言亦中臣病而責大重願如中復言召之
新字:出知揚州徙江東転運使御史吳中復請還公言路時潞公再当国亦言介頃為御史所言亦中臣病而責大重願如中復言召之
書き下し
出でて揚州を知し、江東轉運使に徙る。御史吳中復、公を言路に還さんことを請う。時に潞公再び國に當たり、亦た言う、介頃ろ御史爲り。言う所も亦た臣の病に中たる。而して責は大いに重し。願わくは中復の言の如く之を召せと。
現代語訳
外に出て揚州の知事となり、江東転運使に移った。御史の呉中復が、唐介を言論の職に戻すよう願い出た。当時、文彦博がふたたび国政に当たっており、こうも言った。「介は先ごろ御史でありました。言ったことは、まさに臣の病を言い当てております。それにしては責めが大きく重すぎます。どうか中復の言うとおり、これを召してください」。
解説
五十字です。唐介の弾劾で罷免されたのが、この文彦博でした。復帰したその人が、自分を落とした相手を戻すよう願い出ています。しかも、弾劾の内容を認めています。**言ったことは、まさに臣の病を言い当てております。**そのうえで、処分だけが重すぎたと言う。**それにしては責めが大きく重すぎます。**文彦博の巻に「私を弾劾した人を呼ばないなら、私も行きません」という条がありました。同じ一件が、二つの巻に別々に残されています。
この章句が説くこと
御史吳中復公を言路に還さんことを請う時に潞公再び国に当たる介頃ろ御史為り言う所も亦た臣の病に中たる而して責は大いに重し願わくは中復の言の如く之を召せ弾劾復帰
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