宋名臣言行録 / 後集巻四・劉敞
治揚前守政苛吏民不安公以寛簡附之而民大和及至鄆月餘境内政清盜賊屏息先是西路久旱鄆尤多蝗公入境而雨至州數日蝗自出境亡去
新字:治揚前守政苛吏民不安公以寛簡附之而民大和及至鄆月余境内政清盗賊屏息先是西路久旱鄆尤多蝗公入境而雨至州数日蝗自出境亡去
書き下し
揚を治む。前の守の政苛にして吏民安んぜず。公寬簡を以て之に附す。而して民大いに和す。鄆に至るに及び、月餘にして境内の政清く、盜賊屏息す。是より先、西路久しく旱し、鄆尤も蝗多し。公境に入りて雨至り、州に數日して蝗自ら境を出でて亡げ去る。
現代語訳
揚州を治めた。前任の長官の政は厳しく、役人も民も落ち着かなかった。劉敞はゆるやかで簡素なやり方で人々に寄り添った。それで民は大いに和らいだ。鄆州に移ってからは、一か月あまりで管内の政は清らかになり、盗賊は息をひそめた。これより先、西路は長く旱に見舞われ、鄆州はことに蝗が多かった。劉敞が境に入ると雨が降り、州に着いて数日で蝗はひとりでに境を出て去った。
解説
前半は実務、後半は瑞祥です。実務のほうは、前任との対比だけで書かれています。**前任の長官の政は厳しく、役人も民も落ち着かなかった。劉敞はゆるやかで簡素なやり方で人々に寄り添った。**同じ土地に、逆の手を当てた。後半は、いまの目には偶然としか読めません。**境に入ると雨が降り、州に着いて数日で蝗は境を出て去った。**この種の記述を、この書は削らずに残します。当時の人が良い長官の着任をどう感じたか、そのままの温度で残っています。
この章句が説くこと
前の守の政苛にして吏民安んぜず公寛簡を以て之に附す而して民大いに和す鄆に至るに及び月余にして境内の政清く盗賊屏息す公境に入りて雨至り州に数日して蝗自ら境を出でて亡げ去る寛政地方
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