宋名臣言行録 / 後集巻四・劉敞
判考功夏竦薨賜諡文正公曰此吾職也即上疏言諡者有司之事也且竦行不應法今有司各得守其職而陛下侵臣官疏三上天子嘉其守為更其諡曰文莊公曰姑可以止矣
新字:判考功夏竦薨賜諡文正公曰此吾職也即上疏言諡者有司之事也且竦行不応法今有司各得守其職而陛下侵臣官疏三上天子嘉其守為更其諡曰文荘公曰姑可以止矣
書き下し
考功を判ず。夏竦薨じて諡を文正と賜う。公曰く、此れ吾が職なりと。即ち上疏して言う、諡は有司の事なり。且つ竦の行いは法に應ぜず。今有司は各ミ其の職を守るを得るに、而して陛下は臣の官を侵すと。疏三たび上る。天子其の守るを嘉して爲に其の諡を更めて文莊と曰う。公曰く、姑く以て止む可しと。
現代語訳
考功を担当した。夏竦が薨じて、諡を「文正」と賜った。劉敞は言った。「これは私の職務である」。すぐに上疏して言った。「諡は担当の役所の事です。そのうえ夏竦の行いは、その基準に合いません。いま担当の役所はそれぞれ職分を守っておりますのに、陛下は臣の官の職分を侵しておられます」。上疏は三度に及んだ。天子はその職分を守る姿勢を嘉して、そのために諡を改めて「文荘」とした。劉敞は言った。「ひとまず、これでやめてよい」。
解説
諡が不当だ、という抗議です。言い方が二段になっています。まず基準の話。**夏竦の行いは、その基準に合いません。**そして、より強い一言が続きました。**いま担当の役所はそれぞれ職分を守っておりますのに、陛下は臣の官の職分を侵しておられます。**内容の是非ではなく、誰が決めるかを問題にした。天子相手に職分の侵害を言っています。結果は妥協でした。そして、引き際の一行が良い。**ひとまず、これでやめてよい。**
この章句が説くこと
夏竦薨じて諡を文正と賜う公曰く此れ吾が職なり諡は有司の事なり且つ竦の行いは法に応ぜず今有司は各ミ其の職を守るを得るに而して陛下は臣の官を侵す天子其の守るを嘉して為に其の諡を更めて文荘と曰う職分諡
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