宋名臣言行録 / 後集巻四・王素
公自筮仕所至稱為能吏既升䑓風力愈勁嘗與同列奏事上前事有不合衆皆引去公方論列是非俟得㫖乃退帝曰真御史也議者目公為獨擊鶻
新字:公自筮仕所至称為能吏既升䑓風力愈勁嘗与同列奏事上前事有不合衆皆引去公方論列是非俟得旨乃退帝曰真御史也議者目公為独撃鶻
書き下し
公筮仕より至る所能吏と稱せらる。既に臺に升りて風力愈ミ勁し。嘗て同列と上前に奏事す。事に合わざる有り。衆皆引き去る。公方に是非を論列し、旨を得るを俟ちて乃ち退く。帝曰く、眞の御史なりと。議者公を目して獨擊鶻と爲す。
現代語訳
王素は仕官してから、赴任先のどこでも有能な役人だと評された。御史台に上がってからは、その風あたりの強さがますます勁くなった。かつて同僚と天子の前で奏上した。意にそぐわないところがあった。皆は引き下がって去った。王素はそのまま是非を論じ立て、裁可を得るのを待ってから退いた。天子は言った。「まことの御史である」。論ずる者は王素を「独撃鶻」と呼んだ。
解説
五十八字ですが、場の空気の変わり目が見えます。天子の意にそぐわないと分かった瞬間、全員が退がりました。皆は引き下がって去った。残ったのは一人です。しかも、その場で言い切って終わりにせず、結論が出るまで動いていません。そのまま是非を論じ立て、裁可を得るのを待ってから退いた。天子の評は短い。まことの御史である。そして渾名が付きました。一羽で獲物に向かう鷹、という意味の呼び名です。
この章句が説くこと
既に台に升りて風力愈ミ勁し事に合わざる有り衆皆引き去る公方に是非を論列し旨を得るを俟ちて乃ち退く帝曰く真の御史なり議者公を目して独擊鶻と為す帝曰く真の御史なり議者公を目して独撃鶻と為す直言
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