宋名臣言行録 / 後集巻四・蔡襄
陳執中叅政公與孫甫上言執中剛愎不才若任以政天下不幸上不聽因求出知福州
新字:陳執中参政公与孫甫上言執中剛愎不才若任以政天下不幸上不聴因求出知福州
書き下し
陳執中參政たり。公と孫甫と上言す、執中は剛愎不才なり。若し任ずるに政を以てせば、天下の不幸なりと。上聽かず。因りて出でて福州を知らんことを求む。
現代語訳
陳執中が参政となった。蔡襄と孫甫が上言した。「執中は頑固で才がありません。もし政を任せるなら、天下の不幸です」。天子は聞き入れなかった。そこで外に出て福州の知事となることを願い出た。
解説
三十四字です。反対し、通らず、去る。それだけが書いてあります。天子は聞き入れなかった。そこで外に出て福州の知事となることを願い出た。残って重ねて言う道も、黙って従う道もありました。選んだのは三つ目です。言ったことに対して、自分の身の置き方で決着をつけている。同じ人物について、文彦博の巻には「無能でも押さえの効く人を外すのは難しい」という天子の悩みが記録されていました。同じ一件が、別の巻で別の顔を見せています。
この章句が説くこと
陳執中参政たり執中は剛愎不才なり若し任ずるに政を以てせば天下の不幸なり上聴かず因りて出でて福州を知らんことを求む諫言拒絶
関連する章句
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