宋名臣言行録 / 後集巻三・張方平
故事嵗賜契丹金繒服器召二府觀焉公以宣徽使與召衆謂天子脩貢為辱而陛下神武可一戰勝也公獨曰陛下謂宋與契丹凡㡬戰勝負㡬何兩府八公皆莫知也神宗以問公公曰宋與契丹大小八十一戰惟張賢齊大原之戰才一勝耳陛下視和與戰孰便上善之
新字:故事歳賜契丹金繒服器召二府観焉公以宣徽使与召衆謂天子脩貢為辱而陛下神武可一戦勝也公独曰陛下謂宋与契丹凡㡬戦勝負㡬何両府八公皆莫知也神宗以問公公曰宋与契丹大小八十一戦惟張賢斉大原之戦才一勝耳陛下視和与戦孰便上善之
書き下し
故事、歳ミ契丹に金繒服器を賜う。二府を召して焉れを觀しむ。公宣徽使を以て召に與る。衆謂う、天子貢を修むるは辱なり。而して陛下の神武は一戰して勝つ可しと。公獨り曰く、陛下謂えらく、宋と契丹と凡そ幾たび戰い、勝負は幾何ぞと。兩府の八公皆知る莫し。神宗以て公に問う。公曰く、宋と契丹と大小八十一戰。惟だ張賢齊の太原の戰のみ、才かに一勝のみ。陛下、和と戰と孰れか便なるかを視られよと。上之を善しとす。
現代語訳
先例では、毎年契丹に金や絹、衣服や器物を贈った。中書と枢密を召してこれを見せた。張方平は宣徽使としてその召しに加わった。人々は言った。「天子が貢を修めるのは辱めである。しかも陛下の神のごとき武をもってすれば、一戦して勝てる」。張方平ひとりが言った。「陛下、宋と契丹はこれまで何度戦い、勝敗はどれほどであったとお考えですか」。中書と枢密の八人は、みな知らなかった。神宗はそれを張方平に問うた。張方平は言った。「宋と契丹は大小合わせて八十一度戦いました。ただ張斉賢の太原の戦だけが、わずかに一勝です。陛下、和と戦と、どちらが得かをご覧ください」。天子はこれを善しとした。
解説
主戦論に、数字を一つ出して答えた条です。まず問いにしました。**宋と契丹はこれまで何度戦い、勝敗はどれほどであったとお考えですか。**答えられる者がいなかったところが要です。**中書と枢密の八人は、みな知らなかった。**勝てると言っていた人たちが、過去の勝率を知らないまま言っていた。そして数字が出ます。**八十一度戦って、わずかに一勝。**議論の言葉ではなく、記録の一行が場を決めました。
この章句が説くこと
天子貢を修むるは辱なり而して陛下の神武は一戦して勝つ可し宋と契丹と凡そ幾たび戦い勝負は幾何ぞ両府の八公皆知る莫し宋と契丹と大小八十一戦惟だ張賢斉の太原の戦のみ才かに一勝のみ数字主戦
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