宋名臣言行録 / 後集巻三・吳奎
奉使契丹彼中羣臣為其主加稱號謁公使入賀公自以使事有職賀無預也不為往北主畏其守義甚重之
新字:奉使契丹彼中羣臣為其主加称号謁公使入賀公自以使事有職賀無預也不為往北主畏其守義甚重之
書き下し
契丹に奉使す。彼中の羣臣、其の主の爲に稱號を加え、公に謁して入賀せしめんとす。公自ら使事に職有り、賀は預る無きなりと以て、爲に往かず。北主其の義を守るを畏れ、甚だ之を重んず。
現代語訳
契丹に使いした。かの地の臣下たちが、その君主のために称号を加えることになり、呉奎に会って祝賀に加わらせようとした。呉奎は、自分の使いの任務には定められた職分があり、祝賀は関わるところではない、として、そのために出向かなかった。契丹の君主はその義を守る姿勢を畏れ、たいそうこれを重んじた。
解説
四十二字です。断る理由に、相手を貶める言葉が一つも入っていません。自分の使いの任務には定められた職分があり、祝賀は関わるところではない。称号が正当かどうかを論じれば、そこで角が立ちます。職分の話にすれば、相手の側の事情には触れずに済む。しかも欠席するだけで、抗議もしていません。そのために出向かなかった。結果は、相手からの敬意でした。契丹の君主はその義を守る姿勢を畏れ、たいそうこれを重んじた。
この章句が説くこと
彼中の羣臣其の主の為に称号を加え公に謁して入賀せしめんとす公自ら使事に職有り賀は預る無きなりと以て為に往かず北主其の義を守るを畏れ甚だ之を重んず職分外交節
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