宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
公之在朝契丹使耶律永昌劉霄來聘軾奉詔舘客與使者入覲望見公殿門外却立改容曰此潞公也耶所謂以徳服人者問其年曰何壯也軾曰使者見其容未聞其語其總理庶務酬酢事物雖精練少年有不能及貫穿古今洽聞强記雖専門名家有不逮使者拱手曰天下異人也公歸洛西羌首領有温谿心者請於邉吏願獻良馬於公邉吏以聞詔聴之
新字:公之在朝契丹使耶律永昌劉霄来聘軾奉詔舘客与使者入覲望見公殿門外却立改容曰此潞公也耶所謂以徳服人者問其年曰何壮也軾曰使者見其容未聞其語其総理庶務酬酢事物雖精練少年有不能及貫穿古今洽聞強記雖専門名家有不逮使者拱手曰天下異人也公帰洛西羌首領有温谿心者請於邉吏願献良馬於公邉吏以聞詔聴之
書き下し
公の朝に在るや、契丹の使耶律永昌・劉霄來聘す。軾詔を奉じて客を舘し、使者と入覲す。公を殿門の外に望み見て、卻立し容を改めて曰く、此れ潞公なるか。所謂德を以て人を服する者なりと。其の年を問いて曰く、何ぞ壯なるやと。軾曰く、使者は其の容を見て未だ其の語を聞かず。其の庶務を總理し事物に酬酢するは、精練の少年と雖も及ぶ能わざる有り。古今を貫穿し洽聞強記なるは、專門名家と雖も逮ばざる有りと。使者手を拱きて曰く、天下の異人なりと。公洛に歸る。西羌の首領に溫谿心なる者有り、邊吏に請いて良馬を公に獻ぜんことを願う。邊吏以て聞す。詔して之を聽す。
現代語訳
文彦博が朝廷にいたころ、契丹の使者の耶律永昌と劉霄が訪問して来た。蘇軾は詔を受けて客を接待し、使者とともに拝謁に入った。文彦博を殿門の外に遠く見て、使者は立ち止まり顔つきを改めて言った。「これが潞公か。いわゆる徳によって人を服させる人というものだ」。その年齢を問うて言った。「なんと壮健なことか」。蘇軾は言った。「使者はその姿を見ただけで、まだその言葉を聞いていない。多くの事務を統べ、物事に応じるさまは、鍛えられた若者でも及ばないところがある。古今を貫いて通じ、広く聞き強く記憶することは、専門の名家でも及ばないところがある」。使者は手を組んで言った。「天下の非凡な人である」。文彦博が洛陽に帰ったとき、西羌の首領に温谿心という者があり、国境の役人に願って良馬を文彦博に献上したいと言った。役人はこれを上申した。詔してこれを許した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『晏子春秋』雑下・晏子使吳吳王命儐者稱天子晏子詳惑晏子呉に使いす。呉王行人に謂いて曰く、「吾聞く、晏嬰は蓋し北方の辞に弁にして、礼に習う者なりと。儐者に命ぜよ、『客見ゆれば則ち天子請見すと称せよ』と」と。明日、晏子事有り。行人曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。行人又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たること三たび、曰く、「臣命を弊邑の君に受け、将に呉王の所に使いせんとす。不敏にして迷惑するを以て、天子の朝に入れり。敢えて問う、呉王は悪くにか存する」と。然る後呉王曰く、「夫差請見す」と。之に見ゆるに諸侯の礼を以てす。
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史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
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説苑・奉使齊魯を攻む。子貢哀公に見え、吳に救いを求めんことを請う。公曰く、「奚ぞ先君の寶を用いんや。」子貢曰く、「吳をして寶を責めて我に師を與えしむれば、是れ恃むべからざるなり。」是に於て楊幹麻筋の弓六を以て往く。子貢吳王に謂いて曰く、「齊無道を爲し、周公の後をして血食せざらしめんと欲す。且つ魯の賦五百、邾の賦三百なり。識らず此を以て齊を益せば、吳の利ならんか、非ならんか。」吳王懼れ、乃ち師を興して魯を救う。諸侯曰く、「齊周公の後を伐つに、吳之を救う。」遂に吳に朝す。
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史記 樗里子甘茂列伝甘茂をしてこれを撃たしむ。斬首六万、遂に宜陽を抜く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。武王竟に周に至りて、周に卒す。その弟立ち、昭王と為る。王の母宣太后は、楚の女なり。楚の懐王、前に秦の楚を丹陽に敗りて韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を囲む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立ち、太后は楚人なれば、救ふを肯んぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の為に秦の昭王に言ひて曰く、「公仲は方に秦の救ひを得る有らんとす、故に敢へて楚を捍ぐなり。今、雍氏囲まれ、秦の師殽を下らずんば、公仲且に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔且に国を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢へて聴かずんばあらず、然らば則ち秦を伐つの形成る。識らず、坐して伐たるるを待つと人を伐つの利といづれぞ」と。秦王曰く、「善し」と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。秦、向寿をして宜陽を平らげしめ、而して樗里子・甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向寿は宣太后の外族なり、而して昭王と少くして相長ず、故に任用せらる。向寿、楚に如く、楚は秦の向寿を貴ぶを聞きて、厚く向寿に事ふ。向寿、秦の為に宜陽を守り、将に以て韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向寿に謂はしめて曰く、「禽も困しめば車を覆す。公、韓を破り、公仲を辱めしも、公仲は国を収めてまた秦に事へ、自ら以為へらく必ず封ぜらるべしと。今、公は楚と解口の地を与へ、小令尹を封ずるに杜陽を以てす。秦楚合してまた韓を攻めば、韓必ず亡びん。韓亡びば、公仲且に躬ら其の私徒を率ゐて以て秦を閼がんとす。願はくは公これを孰慮せよ」と。向寿曰く、「吾の秦楚を合するは以て韓に当たるに非ざるなり。子、寿の為にこれを公仲に謁げて、秦韓の交は合すべしと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願はくは公に謁ぐる有らん。人曰く、その貴ぶ所以の者を貴ぶ者は貴しと。王の公を愛習するや、公孫奭に如かず。その公を智能とするや、甘茂に如かず。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。

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