宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
其後司馬温公與數公又為真率㑹有約酒不過五行食不過五味唯菜無限楚正議違約増飲食之數罰一㑹皆洛陽太平盛事也洛之士庶又生祠潞公於資聖院温公取神宗送公判河南詩□于榜曰竚瞻堂塑公像其中冠劍偉然都人事之甚肅
新字:其後司馬温公与数公又為真率会有約酒不過五行食不過五味唯菜無限楚正議違約増飲食之数罰一会皆洛陽太平盛事也洛之士庶又生祠潞公於資聖院温公取神宗送公判河南詩□于榜曰竚瞻堂塑公像其中冠剣偉然都人事之甚粛
書き下し
其の後、司馬溫公と數公と又た眞率會を爲す。約有り、酒は五行を過ぎず、食は五味を過ぎず、唯だ菜のみ限り無し。楚正議約に違いて飲食の數を增す。一會を罰せらる。皆洛陽の太平の盛事なり。洛の士庶又た潞公を資聖院に生祠す。溫公、神宗の公を送りて河南を判ぜしむる詩を取りて榜に□し、竚瞻堂と曰う。公の像を其の中に塑す。冠劍偉然たり。都人之に事うること甚だ肅たり。
現代語訳
その後、司馬光と数人がまた真率会を催した。取り決めがあって、酒は五杯を超えず、料理は五品を超えず、ただ野菜だけは制限しない。楚建中が取り決めに背いて飲食の数を増した。会を一度催す罰を受けた。どれも洛陽の太平の盛事である。洛陽の士人も庶民も、文彦博を資聖院に生きているうちから祀った。司馬光は、神宗が文彦博を送って河南の長官とした詩を取って掲額に〔一字を欠く〕し、「竚瞻堂」と名づけた。文彦博の像をその中に塑した。冠と剣が堂々としていた。都の人がこれに仕えることは、たいそう厳粛であった。
解説
耆英会の後にできた、もっと簡素な会です。取り決めが具体的でした。**酒は五杯を超えず、料理は五品を超えず、ただ野菜だけは制限しない。**上限は決めるが、野菜だけは自由にする。倹約の会が窮屈にならない匙加減です。破った人の罰も気が利いています。**取り決めに背いて飲食の数を増した。会を一度催す罰を受けた。**罰が、次の会の当番でした。集まりが一回増えるだけで済む。この三条は、退いた人たちの晩年の過ごし方の記録になっています。
この章句が説くこと
司馬温公と数公と又た真率会を為す約有り酒は五行を過ぎず食は五味を過ぎず唯だ菜のみ限り無し楚正議約に違いて飲食の数を增す一会を罰せらる約束簡素
関連する章句
-
『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁公留臺を判せし時、一時の耆舊多く洛に在り。公と司馬公と皆客を好み、而して家貧し。相い約して眞率會を爲す。脱粟の一飯、酒數行。過從して一日も間てず。洛中誇りて以て勝事と爲す。
-
『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博公地主を以て妓樂を攜え、富公の宅に就きて第一會を作す。富公の會に至り、羊酒を送りて出でず。餘は皆次を爲して會と爲す。洛陽は名園古刹に水竹林亭の勝を占むる多し。諸老は鬚眉皓白、衣冠甚だ偉たり。宴集する毎に都人隨いて之を觀る。潞公又た同甲會を爲す。司馬郎中旦・程大中珦・席司封汝言は皆丙午の人なり。亦た像を資聖院に繪かしむ。
-
『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元豐五年、公太尉を以て西都に留守す。時に富韓公は司徒を以て致仕す。公、唐の白樂天の九老會を慕い、乃ち洛中の公卿大夫の年德髙き者を集めて耆英會と爲す。洛中の風俗は齒を尚びて官を尚ばざるを以て、資聖院に就きて大厦を建て耆英堂と曰う。閩人鄭奐に會いて像を堂中に繪かしむ。時に富公は年七十九、文潞公と司封郎中席汝言とは皆七十七、朝議大夫王尚恭は年七十六、太常少卿趙丙・秘書監劉几・衛州防禦使馮行己は皆年七十五、天章閣待制楚建中・朝議大夫王慎言は皆七十二、大中大夫張問・龍圖閣直學士張燾は皆年七十。時に宣徽使王拱辰は北京に留守す。書を潞公に貽りて其の會に預らんことを願う。年七十一。獨り司馬溫公のみ年未だ七十ならず。潞公素より其の人を重んじ、唐の九老の狄兼謩の故事を用いて會に入らんことを請う。溫公辭するに晚進を以てし、敢えて文・富二公の後に班せずと。公從わず、鄭奐をして幕後より溫公の像を傳えしめ、又た北京に之きて王公の像を傳えしむ。是に於いて會に預る者凡そ十三人なり。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光公の學を好むこと飢渇の飲食を嗜むが如し。財利紛華に於いては惡臭を惡むが如し。誠心自然にして天下之を信ず。洛に退居し、陝洛の間を往來する者は皆其の德に化し、其の學を師とし、其の儉に法る。不善有らば曰く、君實得無く之を知らんかと。博學にして通ぜざる無し。音樂・律暦・天文・書數皆其の妙を極む。晩節尤も禮を好み、冠婚喪祭の法を爲して古今の宜しきに適う。釋老を喜ばず。曰く、其の微言は吾が書を出づる能わず。其の誕は吾信ぜずと。生産を事とせず。第を洛中に買うも僅かに風□を庇う。田三頃有り。躬ら庶務に親しみ晝夜を舎かず。
-
『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元豐の間、公太尉を以て西京に留守す。未だ印を交えずして、先に第に就き廟に坐して監司・府官に見ゆ。唐參政介の子義問、運判爲り。退きて其の客尹渙に謂いて曰く、先公臺官爲り。嘗て潞公を言えり。今豈に挾みて恨みと爲さざらんや。當に之を避くべしと。渙曰く、公の爲す所は必ず理有らん。姑く之を聽けと。明日、公府事を交え、次を以て監司・府官に見ゆること常儀の如し。或るひと以て公に問う。公曰く、吾未だ府事を視ざれば、三公の庶僚に見ゆるなり。既に印を交うれば、河南知府の監司に見ゆるなりと。義問之を聞き、復た渙に謂いて曰く、君微かりせば、殆ど潞公に失有らんとすと。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光潞公温公に謂いて曰く、彦博北京に留守せしとき、人を遣わして大遼に入りて事を偵らしむ。囘りて云う、虜主の羣臣に大宴するを見る。伶人劇戯して、衣冠せる者の物を見れば必ず攫取して之を懷にするを作す。其の後に從いて鞭を以て之を扑つ者有りて曰く、司馬端明かと。君實の清名の夷狄に在ること此くの如し。公愧謝す。