宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
元豐間公以太尉留守西京未交印先就第廟坐見監司府官唐叅政介之子義問為運判退謂其客尹渙曰先公為臺官嘗言潞公今豈挾為恨邪當避之渙曰公所為必有理姑聽之明日公交府事以次見監司府官如常儀或以問公公曰吾未視府事三公見庶僚也既交印河南知府見監司矣義問聞之復謂渙曰㣲君殆有失於潞公也
新字:元豊間公以太尉留守西京未交印先就第廟坐見監司府官唐叅政介之子義問為運判退謂其客尹渙曰先公為台官嘗言潞公今豈挟為恨邪当避之渙曰公所為必有理姑聴之明日公交府事以次見監司府官如常儀或以問公公曰吾未視府事三公見庶僚也既交印河南知府見監司矣義問聞之復謂渙曰㣲君殆有失於潞公也
書き下し
元豐の間、公太尉を以て西京に留守す。未だ印を交えずして、先に第に就き廟に坐して監司・府官に見ゆ。唐參政介の子義問、運判爲り。退きて其の客尹渙に謂いて曰く、先公臺官爲り。嘗て潞公を言えり。今豈に挾みて恨みと爲さざらんや。當に之を避くべしと。渙曰く、公の爲す所は必ず理有らん。姑く之を聽けと。明日、公府事を交え、次を以て監司・府官に見ゆること常儀の如し。或るひと以て公に問う。公曰く、吾未だ府事を視ざれば、三公の庶僚に見ゆるなり。既に印を交うれば、河南知府の監司に見ゆるなりと。義問之を聞き、復た渙に謂いて曰く、君微かりせば、殆ど潞公に失有らんとすと。
現代語訳
元豊年間、文彦博は太尉として西京に留守した。まだ印を引き継がないうちに、先に邸に入り、廟に座って監司や府の役人に会った。唐介の子の義問が運判であった。退出してからその客の尹渙に言った。「亡き父は御史であった。かつて潞公を弾劾している。いまそれを根に持って恨んでおられないはずがない。避けるべきだ」。尹渙は言った。「公のなさることには必ず理由があるはずです。しばらく様子をご覧なさい」。翌日、文彦博は府の事務を引き継ぎ、順を追って監司や府の役人に会うこと、通常の儀礼どおりであった。ある人がこれを文彦博に尋ねた。文彦博は言った。「私がまだ府の事務を執っていない間は、三公が下僚に会うのである。印を引き継いだ後は、河南知府が監司に会うのである」。義問はこれを聞いて、また尹渙に言った。「君がいなければ、危うく潞公に対して失礼を働くところだった」。
解説
この章句が説くこと
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