宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
公以地主攜妓樂就富公宅作第一㑹至富公㑹送羊酒不出餘皆次為㑹洛陽多占名園古刹有水竹林亭之勝諸老鬚眉皓白衣冠甚偉每宴集都人隨觀之潞公又為同甲㑹司馬郎中旦程大中珦席司封汝言皆丙午人也亦繪像於資聖院
新字:公以地主攜妓楽就富公宅作第一会至富公会送羊酒不出余皆次為会洛陽多占名園古刹有水竹林亭之勝諸老鬚眉皓白衣冠甚偉毎宴集都人随観之潞公又為同甲会司馬郎中旦程大中珦席司封汝言皆丙午人也亦絵像於資聖院
書き下し
公地主を以て妓樂を攜え、富公の宅に就きて第一會を作す。富公の會に至り、羊酒を送りて出でず。餘は皆次を爲して會と爲す。洛陽は名園古刹に水竹林亭の勝を占むる多し。諸老は鬚眉皓白、衣冠甚だ偉たり。宴集する毎に都人隨いて之を觀る。潞公又た同甲會を爲す。司馬郎中旦・程大中珦・席司封汝言は皆丙午の人なり。亦た像を資聖院に繪かしむ。
現代語訳
文彦博は土地の主人として妓と楽人を伴い、富弼の邸で第一回の会を催した。富弼の当番の回になると、羊と酒を届けただけで本人は出て来なかった。残りの者はみな順番に当番となって会を催した。洛陽には名園や古刹で、水と竹と林と亭の景勝を占めるところが多い。老人たちは鬚も眉も真っ白で、衣冠はたいそう堂々としていた。宴が催されるたびに、都の人々が後についてこれを見物した。文彦博はまた同甲会を催した。司馬郎中の旦、程大中の珦、席司封の汝言は、みな丙午の年の生まれである。その像もまた資聖院に描かせた。
解説
会の運びに、無理をしていないところが見えます。**富弼の当番の回になると、羊と酒を届けただけで本人は出て来なかった。**主催者の一人が自分の番に出ない。それを咎めた様子もなく、順番は回り続けます。そして外から見た光景が一行で残りました。**老人たちは鬚も眉も真っ白で、衣冠はたいそう堂々としていた。宴が催されるたびに、都の人々が後についてこれを見物した。**引退した高官が集まって遊んでいるだけです。それが町の見物になっている。同い年の会も別に作られました。
この章句が説くこと
公地主を以て妓楽を攜え富公の宅に就きて第一会を作す富公の会に至り羊酒を送りて出でず諸老は鬚眉皓白衣冠甚だ偉たり宴集する毎に都人随いて之を観る集い見物
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博其の後、司馬溫公と數公と又た眞率會を爲す。約有り、酒は五行を過ぎず、食は五味を過ぎず、唯だ菜のみ限り無し。楚正議約に違いて飲食の數を增す。一會を罰せらる。皆洛陽の太平の盛事なり。洛の士庶又た潞公を資聖院に生祠す。溫公、神宗の公を送りて河南を判ぜしむる詩を取りて榜に□し、竚瞻堂と曰う。公の像を其の中に塑す。冠劍偉然たり。都人之に事うること甚だ肅たり。
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元豐五年、公太尉を以て西都に留守す。時に富韓公は司徒を以て致仕す。公、唐の白樂天の九老會を慕い、乃ち洛中の公卿大夫の年德髙き者を集めて耆英會と爲す。洛中の風俗は齒を尚びて官を尚ばざるを以て、資聖院に就きて大厦を建て耆英堂と曰う。閩人鄭奐に會いて像を堂中に繪かしむ。時に富公は年七十九、文潞公と司封郎中席汝言とは皆七十七、朝議大夫王尚恭は年七十六、太常少卿趙丙・秘書監劉几・衛州防禦使馮行己は皆年七十五、天章閣待制楚建中・朝議大夫王慎言は皆七十二、大中大夫張問・龍圖閣直學士張燾は皆年七十。時に宣徽使王拱辰は北京に留守す。書を潞公に貽りて其の會に預らんことを願う。年七十一。獨り司馬溫公のみ年未だ七十ならず。潞公素より其の人を重んじ、唐の九老の狄兼謩の故事を用いて會に入らんことを請う。溫公辭するに晚進を以てし、敢えて文・富二公の後に班せずと。公從わず、鄭奐をして幕後より溫公の像を傳えしめ、又た北京に之きて王公の像を傳えしむ。是に於いて會に預る者凡そ十三人なり。
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元豐の間、公太尉を以て西京に留守す。未だ印を交えずして、先に第に就き廟に坐して監司・府官に見ゆ。唐參政介の子義問、運判爲り。退きて其の客尹渙に謂いて曰く、先公臺官爲り。嘗て潞公を言えり。今豈に挾みて恨みと爲さざらんや。當に之を避くべしと。渙曰く、公の爲す所は必ず理有らん。姑く之を聽けと。明日、公府事を交え、次を以て監司・府官に見ゆること常儀の如し。或るひと以て公に問う。公曰く、吾未だ府事を視ざれば、三公の庶僚に見ゆるなり。既に印を交うれば、河南知府の監司に見ゆるなりと。義問之を聞き、復た渙に謂いて曰く、君微かりせば、殆ど潞公に失有らんとすと。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁公留臺を判せし時、一時の耆舊多く洛に在り。公と司馬公と皆客を好み、而して家貧し。相い約して眞率會を爲す。脱粟の一飯、酒數行。過從して一日も間てず。洛中誇りて以て勝事と爲す。
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『宋名臣言行録』後集巻二・富弼故事、宰相の使相を以て致仕する者は全俸を給す。公司徒使相を以て致仕し洛に居る。三公の俸一百二十千よりの外は皆受けず。公心を清くして道を學び、獨り還政堂に居る。毎に早く作きて中門の鑰を放ち、入りて家廟に瞻禮す。夫人に對すること賓客の如し。子孫は冠帶せざれば見えず(麈史に云う、富鄭公家を治むること嚴整、子舍女僕咸な互いに往來するを得ず、閨門肅たること此くの如しと)。平時は客を謝す。文潞公留守爲る時は節ミ往來す。公素より潞公を喜ぶ。昔同朝のとき、更に其の母を拜し、毎に其の早く退くを勸む。
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