宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
元豐五年公以太尉留守西都時富韓公以司徒致仕公慕唐白樂天九老㑹乃集洛中公卿大夫年徳髙者為耆英㑹以洛中風俗尚齒不尚官就資聖院建大厦曰耆英堂㑹閩人鄭奐繪像堂中時富公年七十九文潞公與司封郎中席汝言皆七十七朝議大夫王尚恭年七十六太常少卿趙丙秘書監劉几衛州防禦使馮行巳皆年七十五天章閣待制楚建中朝議大夫王慎言皆年七十二大中大夫張問龍圖閣直學士張燾皆年七十時宣徽使王拱辰留守北京貽書潞公願預其㑹年七十一獨司馬温公年未七十潞公素重其人用唐九老狄兼謩故事請入㑹温公辭以晚進不敢班文富二公之後公不從令鄭奐自幕後傳温公像又之北京傳王公像於是預㑹者凡十三人
新字:元豊五年公以太尉留守西都時富韓公以司徒致仕公慕唐白楽天九老会乃集洛中公卿大夫年徳高者為耆英会以洛中風俗尚齒不尚官就資聖院建大厦曰耆英堂会閩人鄭奐絵像堂中時富公年七十九文潞公与司封郎中席汝言皆七十七朝議大夫王尚恭年七十六太常少卿趙丙秘書監劉几衛州防禦使馮行巳皆年七十五天章閣待制楚建中朝議大夫王慎言皆年七十二大中大夫張問竜図閣直学士張燾皆年七十時宣徽使王拱辰留守北京貽書潞公願預其会年七十一独司馬温公年未七十潞公素重其人用唐九老狄兼謩故事請入会温公辞以晩進不敢班文富二公之後公不従令鄭奐自幕後伝温公像又之北京伝王公像於是預会者凡十三人
書き下し
元豐五年、公太尉を以て西都に留守す。時に富韓公は司徒を以て致仕す。公、唐の白樂天の九老會を慕い、乃ち洛中の公卿大夫の年德髙き者を集めて耆英會と爲す。洛中の風俗は齒を尚びて官を尚ばざるを以て、資聖院に就きて大厦を建て耆英堂と曰う。閩人鄭奐に會いて像を堂中に繪かしむ。時に富公は年七十九、文潞公と司封郎中席汝言とは皆七十七、朝議大夫王尚恭は年七十六、太常少卿趙丙・秘書監劉几・衛州防禦使馮行己は皆年七十五、天章閣待制楚建中・朝議大夫王慎言は皆七十二、大中大夫張問・龍圖閣直學士張燾は皆年七十。時に宣徽使王拱辰は北京に留守す。書を潞公に貽りて其の會に預らんことを願う。年七十一。獨り司馬溫公のみ年未だ七十ならず。潞公素より其の人を重んじ、唐の九老の狄兼謩の故事を用いて會に入らんことを請う。溫公辭するに晚進を以てし、敢えて文・富二公の後に班せずと。公從わず、鄭奐をして幕後より溫公の像を傳えしめ、又た北京に之きて王公の像を傳えしむ。是に於いて會に預る者凡そ十三人なり。
現代語訳
元豊五年、文彦博は太尉として西都に留守した。当時、富弼は司徒として退官していた。文彦博は唐の白居易の九老会を慕い、そこで洛陽の公卿大夫のうち年齢と徳の高い者を集めて耆英会とした。洛陽の風俗は年齢を尊び官位を尊ばないので、資聖院に大きな建物を建てて耆英堂と名づけた。閩の人の鄭奐に頼んで、その像を堂内に描かせた。当時、富弼は七十九歳、文彦博と司封郎中の席汝言はともに七十七歳、朝議大夫の王尚恭は七十六歳、太常少卿の趙丙・秘書監の劉几・衛州防禦使の馮行己はみな七十五歳、天章閣待制の楚建中・朝議大夫の王慎言はともに七十二歳、大中大夫の張問・龍図閣直学士の張燾はともに七十歳であった。当時、宣徽使の王拱辰は北京に留守しており、手紙を文彦博に送ってその会に加わりたいと願った。七十一歳であった。ただ司馬光だけが七十に達していなかった。文彦博はもとからその人を重んじ、唐の九老における狄兼謩の先例を用いて、会に入るよう請うた。司馬光は、後輩であるからと辞退し、文彦博・富弼の二人の後ろに列するわけにはいかないと言った。文彦博は聞き入れず、鄭奐に命じて幕の後ろから司馬光の像を写させ、また北京に赴いて王拱辰の像を写させた。こうして会に加わった者は合わせて十三人であった。
解説
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博公地主を以て妓樂を攜え、富公の宅に就きて第一會を作す。富公の會に至り、羊酒を送りて出でず。餘は皆次を爲して會と爲す。洛陽は名園古刹に水竹林亭の勝を占むる多し。諸老は鬚眉皓白、衣冠甚だ偉たり。宴集する毎に都人隨いて之を觀る。潞公又た同甲會を爲す。司馬郎中旦・程大中珦・席司封汝言は皆丙午の人なり。亦た像を資聖院に繪かしむ。
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博其の後、司馬溫公と數公と又た眞率會を爲す。約有り、酒は五行を過ぎず、食は五味を過ぎず、唯だ菜のみ限り無し。楚正議約に違いて飲食の數を增す。一會を罰せらる。皆洛陽の太平の盛事なり。洛の士庶又た潞公を資聖院に生祠す。溫公、神宗の公を送りて河南を判ぜしむる詩を取りて榜に□し、竚瞻堂と曰う。公の像を其の中に塑す。冠劍偉然たり。都人之に事うること甚だ肅たり。
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『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元豐の間、公太尉を以て西京に留守す。未だ印を交えずして、先に第に就き廟に坐して監司・府官に見ゆ。唐參政介の子義問、運判爲り。退きて其の客尹渙に謂いて曰く、先公臺官爲り。嘗て潞公を言えり。今豈に挾みて恨みと爲さざらんや。當に之を避くべしと。渙曰く、公の爲す所は必ず理有らん。姑く之を聽けと。明日、公府事を交え、次を以て監司・府官に見ゆること常儀の如し。或るひと以て公に問う。公曰く、吾未だ府事を視ざれば、三公の庶僚に見ゆるなり。既に印を交うれば、河南知府の監司に見ゆるなりと。義問之を聞き、復た渙に謂いて曰く、君微かりせば、殆ど潞公に失有らんとすと。
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『宋名臣言行録』後集巻六・王安石司馬溫公、龐穎公に從いて辟せられて太原府通判と爲る。尚お未だ子有らず。夫人爲に一妾を買う。公殊に顧みず。夫人忌む所有るかと疑う。一日、其の妾に教えて、我が出づるを俟ちて汝自ら飾り書院の中に至れと。公の一顧を冀うなり。妾其の言の如くす。公訝りて曰く、夫人出づ。汝安んぞ此に至るを得たるやと。亟かに之を遣る。穎公之を知り、僚屬に對して其の賢を咨す。二公は聲色を好まず、官職を愛せず、貨利を殖やさざること皆同じ。平生相い善し。新法を論ずるに至りて合わず、始めて書を著して交わりを絶つ。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁公留臺を判せし時、一時の耆舊多く洛に在り。公と司馬公と皆客を好み、而して家貧し。相い約して眞率會を爲す。脱粟の一飯、酒數行。過從して一日も間てず。洛中誇りて以て勝事と爲す。