宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
故事宰相以使相致仕者給全俸公以司徒使相致仕居洛自三公俸一百二十千外皆不受公清心學道獨居還政堂毎早作放中門鑰入瞻禮家廟對夫人如賓客子孫不冠帶不見(麈史云富鄭公治家嚴整子舍女僕咸不得互相往來閨門肅如也)平時謝客文潞公為留守時節往來公素喜潞公昔同朝更拜其母毎勸其早退
新字:故事宰相以使相致仕者給全俸公以司徒使相致仕居洛自三公俸一百二十千外皆不受公清心学道独居還政堂毎早作放中門鑰入瞻礼家廟対夫人如賓客子孫不冠帯不見(麈史云富鄭公治家厳整子舎女僕咸不得互相往来閨門粛如也)平時謝客文潞公為留守時節往来公素喜潞公昔同朝更拝其母毎勧其早退
書き下し
故事、宰相の使相を以て致仕する者は全俸を給す。公司徒使相を以て致仕し洛に居る。三公の俸一百二十千よりの外は皆受けず。公心を清くして道を學び、獨り還政堂に居る。毎に早く作きて中門の鑰を放ち、入りて家廟に瞻禮す。夫人に對すること賓客の如し。子孫は冠帶せざれば見えず(麈史に云う、富鄭公家を治むること嚴整、子舍女僕咸な互いに往來するを得ず、閨門肅たること此くの如しと)。平時は客を謝す。文潞公留守爲る時は節ミ往來す。公素より潞公を喜ぶ。昔同朝のとき、更に其の母を拜し、毎に其の早く退くを勸む。
現代語訳
先例では、宰相で使相の資格をもって退官した者には俸給を全額支給する。富弼は司徒・使相として退官し、洛陽に住んだ。三公の俸給である百二十千のほかは、いっさい受け取らなかった。富弼は心を清くして道を学び、ひとり還政堂に住んだ。毎朝早く起きて中門の鍵を開け、入って家廟に拝礼した。夫人に接することは、客に接するようであった。子や孫は、冠と帯を着けていなければ会わなかった(『麈史』に言う。富弼は家を治めることが厳しく整い、子の部屋と女中はみな互いに行き来することができず、家の中は粛然としていた、と)。ふだんは客を断った。文彦博が留守であったときは、折々に行き来した。富弼はもとから文彦博を好んでいた。昔、同じ朝廷にいたころ、あらためてその母に拝礼し、いつも早く退くよう勧めていた。
解説
この章句が説くこと
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