宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
一日公謂義問曰仁宗朝先叅政為臺官以言彦博謫彦博亦罷相判許州未㡬彦博復召還相位即上言唐某所言正中臣罪召臣未召唐某臣不敢行仁宗用彦博言起叅政判潭州尋至大用與彦博用執政相知為深義問聞公之言至感泣自此出入公門下後薦以為集賢殿修撰帥荆南公之徳度絶人如此
新字:一日公謂義問曰仁宗朝先叅政為台官以言彦博謫彦博亦罷相判許州未㡬彦博復召還相位即上言唐某所言正中臣罪召臣未召唐某臣不敢行仁宗用彦博言起叅政判潭州尋至大用与彦博用執政相知為深義問聞公之言至感泣自此出入公門下後薦以為集賢殿修撰帥荆南公之徳度絶人如此
書き下し
一日、公義問に謂いて曰く、仁宗の朝、先參政は臺官爲り。彦博を言うを以て謫せらる。彦博も亦た相を罷めて許州を判す。未だ幾ならずして彦博復た召されて相位に還る。即ち上言す、唐某の言う所は正に臣の罪に中たる。臣を召して唐某を召さずんば、臣敢えて行かずと。仁宗彦博の言を用い、參政を起こして潭州を判せしむ。尋いで大用に至る。彦博と執政を用うるに相知ること深しと爲すと。義問公の言を聞くに至りて感泣す。此れより公の門下に出入す。後に薦めて以て集賢殿修撰と爲し、荊南に帥たらしむ。公の德度の人に絶するは此くの如し。
現代語訳
ある日、文彦博は唐義問に言った。「仁宗の御代、亡き参政(唐介)は御史であった。彦博を弾劾したことで貶められた。彦博もまた宰相を罷めて許州の長官となった。ほどなく彦博はまた召されて宰相の位に戻った。そこで上言した。『唐某が言ったことは、まさしく臣の罪に当たっております。臣を召して唐某を召されないのであれば、臣は参上いたしません』。仁宗は彦博の言葉を用い、参政を起用して潭州の長官とした。ほどなく大いに用いられるに至った。彦博とは、執政を務めるうえで互いに深く知り合う仲であった」。義問は文彦博の言葉を聞いて感泣した。これより文彦博の門下に出入りした。後に推薦されて集賢殿修撰となり、荊南の帥となった。文彦博の徳と度量が人に抜きん出ていることは、このとおりであった。
解説
前の段で恨まれていると思われていた人が、自分から昔の話をします。弾劾されて二人とも失脚した。復帰したのは自分だけでした。そこで出したのが、この条件です。**唐某が言ったことは、まさしく臣の罪に当たっております。臣を召して唐某を召されないのであれば、臣は参上いたしません。**弾劾の中身を認めたうえで、弾劾した人を戻さないなら自分も戻らない、と。復帰の条件に相手を含めています。そして三十年後、その子に、恨みではなく事実として伝えました。
この章句が説くこと
先参政は台官為り彦博を言うを以て謫せらる唐某の言う所は正に臣の罪に中たる臣を召して唐某を召さずんば臣敢えて行かず義問公の言を聞くに至りて感泣す此れより公の門下に出入す弾劾復帰
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