宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
志聰等素謹愿及夕諸宫門白下鎻志聰曰汝曹自白宰相我不受任其軍令兩府謀以上躬不寜欲留宿宫中而無名辛酉公建議設醮祈福於大慶殿兩府晝夜焚香設幄宿於殿之西廡志聰等白故事兩府無留宿殿中者公曰今何論故事也戊辰以後上神思浸清罷醮兩府始分畨歸第不歸者各宿於其府
新字:志聰等素謹愿及夕諸宮門白下鎻志聰曰汝曹自白宰相我不受任其軍令両府謀以上躬不寜欲留宿宮中而無名辛酉公建議設醮祈福於大慶殿両府昼夜焚香設幄宿於殿之西廡志聰等白故事両府無留宿殿中者公曰今何論故事也戊辰以後上神思浸清罷醮両府始分畨帰第不帰者各宿於其府
書き下し
志聰等素より謹愿なり。夕に及びて諸宮門下鎖を白す。志聰曰く、汝曹自ら宰相に白せ。我は受けずと。其の軍令に任ず。兩府謀るに、上の躬寧からざるを以て宮中に留宿せんと欲するも名無し。辛酉、公建議して醮を設けて福を大慶殿に祈る。兩府晝夜香を焚き、幄を設けて殿の西廡に宿す。志聰等白す、故事、兩府に殿中に留宿する者無しと。公曰く、今何ぞ故事を論ぜんやと。戊辰以後、上の神思浸ミ清らかなり。醮を罷む。兩府始めて番を分かちて第に歸る。歸らざる者は各ミ其の府に宿す。
現代語訳
志聡らはもともと慎み深い者であった。夕方になって諸宮門の施錠を報告してきた。志聡は言った。「お前たちは自分で宰相に申し上げよ。私は受け付けない」。その誓約に従ったのである。中書と枢密は、天子のお体が安らかでないことを理由に宮中に泊まり込もうと謀ったが、名目がなかった。辛酉の日、文彦博は建議して、祈祷の場を設けて大慶殿で福を祈ることにした。中書と枢密は昼夜香を焚き、幕を張って殿の西の廊に泊まった。志聡らは「先例では、中書と枢密が殿中に泊まり込むことはありません」と申し上げた。文彦博は言った。「いま何を先例など論じているのか」。戊辰の日以後、天子の意識はしだいに清明になった。祈祷をやめた。中書と枢密ははじめて交代で邸に帰った。帰らない者は、それぞれ自分の役所に泊まった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前岩村田法華坊主、何にても證拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて書立を以て申上る、
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『春秋左氏伝』昭公十三年 奥主有り、外援無し善に下りて齊肅、賄を藏せず、欲に從はず、施舍して倦まず、善を求めて厭かず。是を以って國を有つ、亦た宜ならずや。我が先君文公は、狐季姬の子なり。獻に寵有り。學を好みて貳はず。生まれて十七年、士五人有り。先大夫子餘・子犯有りて、以って腹心と為す。魏犨・賈佗有りて、以って股肱と為す。齊・宋・秦・楚有りて、以って外主と為す。欒・郤・狐・先有りて、以って内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。惠・懷民を棄て、民從ひて之に與す。獻に異親無く、民に異望無し。天方に晉を相く。將た何を以ってか文に代へん。此の二君は、子干に異なり。共には寵子有り、國には奧主有り。民に施す無く、外に援無し。晉を去れども送らず、楚に歸れども逆へず。何を以ってか國を冀はん」と。晉虒祁を成す。諸侯の朝して歸る者、皆貳心有り。郠を取るが為の故に、晉將に諸侯を以って來り討たんとす。叔向曰く、「諸侯以って威を示さざる可からず」と。乃ち並びに會を徵して吳に告ぐ。
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『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
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『春秋左氏伝』昭公二十六年 王子朝の檄文天周を弔(あはれ)まず、王昏くして若(したが)はず、用って厥の位を愆(うしな)ふ。攜王(けいおう)命を奸(をか)す。諸侯之を替へて、王嗣を建て、用って郟鄏(こうじょく)に遷る。則ち是れ兄弟の能く力を王室に用ふるなり。惠王に至り、天周を靖んぜず、頹に禍心を生じ、叔帶に施(およ)ぶ。惠・襄難を辟け、王都を越え去る。則ち晉・鄭有りて、咸(みな)不端を黜け、以って王家を綏定す。則ち是れ兄弟の能く先王の命に率ふなり。定王の六年に在りて、秦人妖を降して曰く、『周其れ髭王有らん。亦た克く其の職を脩め、諸侯服享し、二世職を共にせん。王室其れ王位を間(うかが)ふもの有らん。諸侯圖らずして、其の亂災を受けん』と。靈王に至り、生まれながらにして髭有り。王甚だ神聖にして、諸侯に惡まるること無し。靈王・景王、克く其の世を終ふ。今王室亂る。單旗・劉狄、天下を剝亂し、壹に若はざるを行ひ、謂ふ、『先王何の常か之れ有らん。唯だ余が心の命ずる所なり。其れ誰か敢へて之を請はん』と。群不弔の人を帥ゐて、以って亂を王室に行ひ、侵欲厭くこと無く、規求度無し。
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