宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
嘉祐元年正月甲寅朔上御大慶殿朝㑹百官就列既巻簾上暴感風□之疾僅能成禮而罷巳未契丹使者入辭置酒紫宸殿上疾又作左右扶入禁中公召内侍都知史志聰鄧保吉問上至禁中起居狀志聰等對以禁中事嚴宻不敢泄公怒叱之曰主上暴得疾係社稷之安危惟君軰得出入禁闥豈可不令宰相知天子起居欲何為者耶自今疾勢小有増損必一一見白仍命直省引至中書取軍令狀
新字:嘉祐元年正月甲寅朔上御大慶殿朝会百官就列既巻簾上暴感風□之疾僅能成礼而罷巳未契丹使者入辞置酒紫宸殿上疾又作左右扶入禁中公召内侍都知史志聰鄧保吉問上至禁中起居状志聰等対以禁中事厳宻不敢泄公怒叱之曰主上暴得疾係社稷之安危惟君軰得出入禁闥豈可不令宰相知天子起居欲何為者耶自今疾勢小有増損必一一見白仍命直省引至中書取軍令状
書き下し
嘉祐元年正月甲寅朔、上大慶殿に御して朝會す。百官列に就く。既に簾を卷くに、上暴かに風□の疾を感じ、僅かに禮を成して罷む。己未、契丹の使者入りて辭す。酒を紫宸殿に置く。上の疾又た作る。左右扶けて禁中に入る。公、内侍都知史志聰・鄧保吉を召し、上の禁中に至りてよりの起居の狀を問う。志聰等對うるに、禁中の事は嚴密にして敢えて泄らさずと以てす。公怒りて之を叱して曰く、主上暴かに疾を得らる。社稷の安危に係る。惟だ君輩のみ禁闥に出入するを得。豈に宰相をして天子の起居を知らしめざる可けんや。何を爲さんと欲する者ぞ。今より疾勢に小しく増損有らば、必ず一一見えて白せと。仍りて直省に命じて中書に引き至らしめ、軍令狀を取る。
現代語訳
嘉祐元年正月一日、天子は大慶殿に出御して朝会した。百官は列に就いた。簾を巻くと、天子はにわかに中風の発作を起こし、かろうじて礼を終えて退いた。己未の日、契丹の使者が入って暇乞いをした。紫宸殿で酒宴を設けた。天子の病がまた起こった。側近が抱えて禁中に入れた。文彦博は内侍都知の史志聡と鄧保吉を呼び、天子が禁中に入ってからの容体を問うた。志聡らは、禁中のことは厳重な秘であって、あえて漏らせません、と答えた。文彦博は怒って叱りつけて言った。「主上がにわかに病を得られたのだ。社稷の安危に関わる。ただお前たちだけが宮中に出入りできる。どうして宰相に天子のご容体を知らせずにおいてよいものか。何をしようというのか。今後、病状に少しでも増減があれば、必ず一つ一つ来て報告せよ」。そのうえで直省に命じて中書へ引き連れさせ、誓約の書き付けを取った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・九地篇能く士卒の耳目を愚にして、之をして知ること無からしむ。其の事を易え、其の謀を革めて、人をして識ること無からしむ。其の居を易え、其の途を迂にして、人をして慮ることを得ざらしむ。
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孫子・用間篇微なるかな、微なるかな。間を用いざる所無し。間事未だ発せずして先ず聞こゆれば、間と告げられし所の者と皆死す。
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易経・繋辞上「戸庭を出でず、咎无し。」子曰く、「乱の生ずる所は、則ち言語以て階(きざはし)と為る。君密ならざれば則ち臣を失い、臣密ならざれば則ち身を失い、幾事(きじ)密ならざれば則ち害成る。是を以て君子は慎密にして出ださざるなり」と。子曰く、「易を作る者は其れ盗を知れるか。易に曰く、負い且つ乗る、寇(あだ)の至るを致す、と。負うとは、小人の事なり。乗るとは、君子の器なり。小人にして君子の器に乗る、盗は之を奪わんと思う。上慢り下暴(あら)ければ、盗は之を伐たんと思う。蔵(おさ)むるに慢れば盗を誨(おし)え、容を冶(つく)れば淫を誨う。易に曰く、負い且つ乗る、寇の至るを致すとは、盗を招くなり」と。
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孫子・九地篇是の故に政挙がるの日、関を夷らげ符を折り、其の使を通ずること無く、廊廟の上に厲しくして、以て其の事を誅む。敵人開闔せば、必ず亟やかに之に入り、其の愛する所を先にし、微かに之と期し、墨を践みて敵に随い、以て戦事を決す。是の故に始めは処女の如くにして、敵人戸を開き、後には脱兎の如くにして、敵拒ぐに及ばず。
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孫子・用間篇故に三軍の事は、間より親きは無く、賞は間より厚きは無く、事は間より密なるは無し。
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呂氏春秋・精諭②勝書、周公旦に説きて曰く、「廷小なるに人衆し。徐言すれば則ち聞こえず、疾言すれば則ち人之を知らん。徐言せんか、疾言せんか。」周公旦曰く、「徐言せよ。」勝書曰く、「此に事有り、而るに之を精言すれば而ち明らかならず、之を言うこと勿くんば而ち成らず。精言せんか、言うこと勿からんか。」周公旦曰く、「言うこと勿かれ。」故に勝書は能く不言を以て説き、周公旦は能く不言を以て聽く。此を之れ不言の聽と謂う。不言の謀、不聞の事は、殷、周を惡むと雖も、疵ること能わず。口吻言わず、精を以て相告ぐれば、紂、多心と雖も、知ること能わず。目は無形に視、耳は無聲に聽けば、商の聞衆しと雖も、窺うこと能わず。同惡同好、志皆欲する有れば、天子為ると雖も、離すこと能わず。