宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
樞宻直學士明鎬討貝州久未下上深以為憂問於兩府叅知政事文彦博請自往督戰八年正月丁丑以彦博為河北宣撫使監諸將討貝州時樞宻使夏竦惡鎬凡鎬所奏請多從中沮惟恐其成功彦博奏今在軍中請得便宜從事不申覆上許之
新字:枢宻直学士明鎬討貝州久未下上深以為憂問於両府叅知政事文彦博請自往督戦八年正月丁丑以彦博為河北宣撫使監諸将討貝州時枢宻使夏竦悪鎬凡鎬所奏請多従中沮惟恐其成功彦博奏今在軍中請得便宜従事不申覆上許之
書き下し
樞密直學士明鎬、貝州を討つも久しく未だ下らず。上深く以て憂と爲し、兩府に問う。參知政事文彦博、自ら往きて督戰せんことを請う。八年正月丁丑、彦博を以て河北宣撫使と爲し、諸將を監して貝州を討たしむ。時に樞密使夏竦、鎬を惡む。凡そ鎬の奏請する所は多く中より之を沮み、惟だ其の成功を恐る。彦博奏す、今軍中に在り、便宜に事に從うを得んことを請う。申覆せずと。上之を許す。
現代語訳
枢密直学士の明鎬が貝州を討ったが、久しく落とせなかった。天子は深く憂いとして、中書と枢密に問うた。参知政事の文彦博は、自ら赴いて戦を督することを願い出た。八年正月丁丑、文彦博を河北宣撫使とし、諸将を監督して貝州を討たせた。当時、枢密使の夏竦は明鎬を憎んでいた。およそ明鎬が上申することは、多く中央で握りつぶし、ただその成功を恐れていた。文彦博は上奏した。「いま軍中におります。臨機応変に事を処理できるようお願いします。いちいち伺いを立てません」。天子はこれを許した。
解説
落ちない城の原因が、城の側にありませんでした。**明鎬が上申することは、多く中央で握りつぶし、ただその成功を恐れていた。**現場の要請が届かないから進まない。原因が後方にあるとき、現場でいくら工夫しても解けません。文彦博が求めたのは増援でも権限の拡大でもなく、経路を外すことでした。**臨機応変に事を処理できるようお願いします。いちいち伺いを立てません。**握りつぶす手が届かないところに、決裁を移しています。
この章句が説くこと
明鎬貝州を討つも久しく未だ下らず凡そ鎬の奏請する所は多く中より之を沮み惟だ其の成功を恐る今軍中に在り便宜に事に従うを得んことを請う申覆せず上之を許す現場裁量
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