宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
寳元中河東闕漕使堂上議難得可任者章郇公言聞搢紳間説文彦博者磊落有稱吕許公曰恨不識也可召來面詢之明日召至堂上退許公歎曰此大有福人何所任用不可遂自殿中侍御史差委明年就遷待制不出十年出將入相
新字:寳元中河東闕漕使堂上議難得可任者章郇公言聞搢紳間説文彦博者磊落有称呂許公曰恨不識也可召来面詢之明日召至堂上退許公嘆曰此大有福人何所任用不可遂自殿中侍御史差委明年就遷待制不出十年出将入相
書き下し
寶元中、河東に漕使を闕く。堂上に議して、任ず可き者を得難しとす。章郇公言う、聞くならく搢紳の間に文彦博なる者を説く、磊落にして稱有りと。呂許公曰く、識らざるを恨む。召し來たらしめて面ミ之を詢う可しと。明日、召して堂上に至る。退きて許公歎じて曰く、此れ大いに福有る人なり。何の任用する所か不可ならんと。遂に殿中侍御史より差委す。明年、就いて待制に遷る。十年を出でずして、出でては將、入りては相たり。
現代語訳
宝元年間、河東に漕運使の欠員が出た。政事堂で議したが、任せられる人物を得がたいとした。章得象が言った。「聞くところでは、官人のあいだで文彦博という者が評判です。堂々として名声があります」。呂夷簡は言った。「知らないのが残念だ。召し寄せて、直接尋ねてみよう」。翌日、召して政事堂に来させた。退がってから呂夷簡は感嘆して言った。「これは大いに福のある人だ。どんな任用をしても不都合はあるまい」。そこで殿中侍御史から任命した。翌年、そのまま待制に移った。十年とたたないうちに、外に出ては将、内に入っては宰相となった。
解説
人事の決め方が、伝聞から始まって面会で決まっています。**知らないのが残念だ。召し寄せて、直接尋ねてみよう。**評判を聞いた宰相が、まず自分で会いに来させました。そして会った後の感想が、能力の評価ではありません。**これは大いに福のある人だ。どんな任用をしても不都合はあるまい。**何ができるかではなく、どこに置いても事が収まる人だ、という見立てです。結果が最後の一行でした。**十年とたたないうちに、外に出ては将、内に入っては宰相となった。**
この章句が説くこと
堂上に議して任ず可き者を得難しとす聞くならく搢紳の間に文彦博なる者を説く磊落にして称有り識らざるを恨む召し来たらしめて面ミ之を詢う可し此れ大いに福有る人なり何の任用する所か不可ならん人事面会
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