宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
蘇内翰軾序公之文曰自漢以來道術不出於孔氏而亂天下者多矣晉以老莊敗梁以佛亡莫或正之五百餘年而後得韓愈學者以配孟氏盖庶幾焉愈之後三百有餘年而後得歐陽子其學推韓愈孟子以逹於孔氏其言簡而明信而通引物連類折之於至理以服人心故天下翕然師尊之曰歐陽子今之韓愈也宋興七十餘年民不知兵富而教之至天聖景祐極矣而斯人終有愧於古士亦因陋守舊論卑而氣弱自歐陽氏一出天下争自濯磨以通經學古為髙以救時行道為賢以犯顔納諌為忠長育成就至嘉祐末號稱多士歐陽子之功為多
新字:蘇内翰軾序公之文曰自漢以来道術不出於孔氏而乱天下者多矣晉以老荘敗梁以仏亡莫或正之五百余年而後得韓愈学者以配孟氏盖庶幾焉愈之後三百有余年而後得欧陽子其学推韓愈孟子以逹於孔氏其言簡而明信而通引物連類折之於至理以服人心故天下翕然師尊之曰欧陽子今之韓愈也宋興七十余年民不知兵富而教之至天聖景祐極矣而斯人終有愧於古士亦因陋守旧論卑而気弱自欧陽氏一出天下争自濯磨以通経学古為高以救時行道為賢以犯顔納諌為忠長育成就至嘉祐末号称多士欧陽子之功為多
書き下し
蘇内翰軾、公の文に序して曰く、漢より以來、道術の孔氏より出でずして天下を亂す者多し。晉は老莊を以て敗れ、梁は佛を以て亡ぶ。或いは之を正す莫きこと五百餘年。而る後に韓愈を得たり。學ぶ者以て孟氏に配す。蓋し庶幾からん。愈の後三百有餘年にして、而る後に歐陽子を得たり。其の學は韓愈・孟子を推して以て孔氏に達す。其の言は簡にして明、信にして通ず。物を引き類を連ね、之を至理に折して以て人心を服す。故に天下翕然として之を師尊して曰く、歐陽子は今の韓愈なりと。宋興りて七十餘年、民は兵を知らず。富ましめて之を教う。天聖・景祐に至りて極まれり。而れども斯の人は終に古に愧ずる有り。士も亦た陋に因り舊を守り、論は卑くして氣は弱し。歐陽氏一たび出でしより、天下爭いて自ら濯磨し、經に通じ古を學ぶを以て髙しと爲し、時を救い道を行うを以て賢と爲し、顔を犯し諫を納るるを以て忠と爲す。長育成就して嘉祐の末に至り、多士を號稱す。歐陽子の功多しと爲すと。
現代語訳
翰林の蘇軾は、欧陽脩の文集に序を書いて言った。「漢以来、学問の道が孔子から出ずに天下を乱した者は多い。晋は老荘によって敗れ、梁は仏によって亡んだ。それを正す者がないまま五百余年、その後にようやく韓愈を得た。学ぶ者は韓愈を孟子に並べる。おそらくそれに近いだろう。韓愈の後、三百余年たって、ようやく欧陽子を得た。その学問は韓愈と孟子をたどって孔子に達する。その言葉は簡潔で明快、確かでよく通じる。物を引き、類を並べ、それを究極の道理に照らして人の心を従わせる。だから天下はこぞってこれを師と仰いで言った、欧陽子は今の韓愈である、と。宋が興って七十余年、民は戦を知らない。富ませたうえで教えた。天聖・景祐の頃に極まった。それでも当時の人は、やはり古に恥じるところがあった。士もまた狭さに安んじて旧習を守り、議論は低く気力は弱かった。欧陽氏がひとたび世に出てから、天下は争って自ら洗い磨き、経に通じ古を学ぶことを高しとし、時代を救い道を行うことを賢しとし、天子の顔色を犯してでも諫めを容れさせることを忠とした。育ち成って嘉祐の末に至り、人材が多いと称された。欧陽子の功が大きい」。
解説
この章句が説くこと
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