宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
公與其姪書云歐陽氏自江南歸明累世蒙官祿吾今又被榮顯致汝等並列官品當思報效偶此多事如有差使盡心向前不得避事至於臨難死節亦是汝榮事昨書中欲買朱砂來吾不闕此物汝於官下宜守㢘何得買官下物吾在官所除飲食外不曾買一物汝可觀此為戒也内翰蘇公題其後曰凡人勉強於外何所不至惟考之於其私乃見真偽此公與其弟姪家書也
新字:公与其姪書云欧陽氏自江南帰明累世蒙官禄吾今又被栄顕致汝等並列官品当思報効偶此多事如有差使尽心向前不得避事至於臨難死節亦是汝栄事昨書中欲買朱砂来吾不闕此物汝於官下宜守廉何得買官下物吾在官所除飲食外不曽買一物汝可観此為戒也内翰蘇公題其後曰凡人勉強於外何所不至惟考之於其私乃見真偽此公与其弟姪家書也
書き下し
公其の姪に與うる書に云う、歐陽氏、江南より歸明してより累世官祿を蒙る。吾今又た榮顯を被り、汝等をして並びに官品に列ならしむるに致る。當に報效を思うべし。偶ま此の多事に、如し差使有らば心を盡くして前に向かえ。事を避くるを得ず。難に臨み節に死するに至るも、亦た是れ汝の榮事なり。昨の書中、朱砂を買い來たらんと欲す。吾此の物を闕かず。汝は官下に於いて宜しく廉を守るべし。何ぞ官下の物を買うを得んや。吾官所に在り、飲食を除くの外、曾て一物をも買わず。汝此を觀て戒と爲す可きなりと。内翰蘇公其の後に題して曰く、凡そ人の外に勉強するは何ぞ至らざる所あらん。惟だ之を其の私に考えて乃ち眞僞を見る。此れ公と其の弟姪との家書なりと。
現代語訳
欧陽脩が甥に与えた手紙に言う。「欧陽氏は江南から帰順して以来、代々官と俸禄をこうむってきた。私はいままた栄えある地位を得て、お前たちまで官の位に並ばせることになった。恩に報いることを思うべきである。ちょうどこの多事の折、もし任務があれば、心を尽くして前に出よ。事を避けてはならぬ。難に臨んで節に死ぬことになっても、それもまたお前の栄誉である。先の手紙に、朱砂を買って送ってほしいとあった。私はこの品に不自由していない。お前は任地にあって、清廉を守るべきである。どうして任地の物を買ってよいものか。私は役所にいて、飲食のほか、いまだ一つの品も買ったことがない。お前はこれを見て戒めとするがよい」。翰林の蘇軾はその後に題して言った。「およそ人が外向きに努めるとき、どこまでも装える。ただ、その私の場において確かめてこそ、真偽が見える。これは公とその弟や甥との家の手紙である」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公奏して御河催綱司を置きて以て糧餉を督す。邊州之に頼る。又た磁・相州に都作院を置きて一路の戎器を繕う。河北方に小しく治まる。而して二府の諸公相い繼いで黨議を以て罷め去る。公慨然として上書して之を論ず。用事者益ミ怒る。會ミ公の外甥女張、公の族人晟に嫁し、失行を以て獄に繫がる。言事者此に乘じて并せて公に中てんと欲し、遂に詔獄を起こして張の貲産を窮治す。上、中官をして之を監劾せしむ。卒に其の誣を辨ず。猶お官を降されて滁州を知らしめらる。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公初め范公を論救するに坐して遠く三峽に貶せらる。後に元昊反く。范起ちて環慶の帥と爲り、公を辟して牋奏を掌らしめんとす。公難じて曰く、吾初めに范公の事を論ずるは、豈に以て己の利と爲さんや。其の退を同じくして其の進を同じくせざるも可なりと。遂に辭して往かず。
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『宋名臣言行録』後集巻八・吕公著歐陽脩翰林と爲り、公の文學行誼は宜しく左右に在るべしと薦め、公を稱して清静寡欲、古の君子の風有りと。脩の北に使いするに及び、中に中國の德行文章の士を動問さる。脩公及び王荊公を以て對う。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公翰林に在り。仁宗一日、間に乘じて御閤の春帖子を見る。讀みて之を愛し、左右に問いて曰く、歐陽脩の辭かと。乃ち悉く宮中の諸帖を取りて之を閲す。其の篇篇に意有るを見て、歎じて曰く、筆を舉げて規諫を忘れず。眞に侍從の臣なりと。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修蘇内翰軾、公の文に序して曰く、漢より以來、道術の孔氏より出でずして天下を亂す者多し。晉は老莊を以て敗れ、梁は佛を以て亡ぶ。或いは之を正す莫きこと五百餘年。而る後に韓愈を得たり。學ぶ者以て孟氏に配す。蓋し庶幾からん。愈の後三百有餘年にして、而る後に歐陽子を得たり。其の學は韓愈・孟子を推して以て孔氏に達す。其の言は簡にして明、信にして通ず。物を引き類を連ね、之を至理に折して以て人心を服す。故に天下翕然として之を師尊して曰く、歐陽子は今の韓愈なりと。宋興りて七十餘年、民は兵を知らず。富ましめて之を教う。天聖・景祐に至りて極まれり。而れども斯の人は終に古に愧ずる有り。士も亦た陋に因り舊を守り、論は卑くして氣は弱し。歐陽氏一たび出でしより、天下爭いて自ら濯磨し、經に通じ古を學ぶを以て髙しと爲し、時を救い道を行うを以て賢と爲し、顔を犯し諫を納るるを以て忠と爲す。長育成就して嘉祐の末に至り、多士を號稱す。歐陽子の功多しと爲すと。
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『宋名臣言行録』後集巻三・趙槩會ミ脩の甥、嫁して脩の從子晟の妻と爲り、人と淫亂す。事覺れ、語脩に連及す。脩時に河北轉運爲り。韓・范を疾む者、皆脩に罪を文致して甥と亂すと云わんと欲す。上怒り、羣臣に敢えて言う者無し。槩乃ち上書して言う、脩は文學を以て近臣爲り。閨房曖昧の事を以て輕がるしく汚衊を加う可からず。臣は脩と踪跡素より疎なり。脩の臣を待するも亦た薄し。惜しむ所の者は朝廷の大體のみと。書奏せられて上悅ばず。人皆之が爲に懼る。公も亦た澹然として平日の如し。之を久しくして脩終に坐して降されて知制誥と爲り、滁州を知す。執政私かに槩を曉譬して出を求めしむ。廼ち出でて蘇州を知す。喪に遭いて官を去り、服闋して翰林學士を除せらる。槩復た表して讓り、歐陽脩は先進なるを以て超越す可からずとす。奏報ぜられずと雖も、時論之を美とす。