宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
公修五代史記褒貶善惡其法甚精發論必以嗚呼曰此亂世之書也吾用春秋之法師其意不襲其文其論曰昔孔子作春秋因亂世而立治法余述本紀以治法而正亂君此其志也書减舊史之半而事迹比舊史添數倍議者以謂功不下司馬遷又謂筆力馳騁相上下而無駁雜說至於紀例精密則遷不及也亦嘗謂我作伶官傳豈下滑稽者也
新字:公修五代史記褒貶善悪其法甚精発論必以嗚呼曰此乱世之書也吾用春秋之法師其意不襲其文其論曰昔孔子作春秋因乱世而立治法余述本紀以治法而正乱君此其志也書减旧史之半而事迹比旧史添数倍議者以謂功不下司馬遷又謂筆力馳騁相上下而無駁雑説至於紀例精密則遷不及也亦嘗謂我作伶官伝豈下滑稽者也
書き下し
公五代史記を修め、善惡を褒貶す。其の法甚だ精し。論を發するに必ず嗚呼を以てす。曰く、此れ亂世の書なり。吾は春秋の法を用い、其の意を師として其の文を襲わずと。其の論に曰く、昔孔子春秋を作るは、亂世に因りて治法を立つるなり。余、本紀を述ぶるは、治法を以て亂君を正すなりと。此れ其の志なり。書は舊史の半ばを減ずるも、事迹は舊史に比して數倍を添う。議する者以謂えらく、功は司馬遷に下らずと。又た謂う、筆力の馳騁は相い上下して駁雜の說無し。紀例の精密に至りては則ち遷も及ばずと。亦た嘗て謂う、我が伶官傳を作る、豈に滑稽に下らんやと。
現代語訳
欧陽脩は『五代史記』を修め、善悪を褒め貶した。その方法はきわめて精密であった。論を起こすときは必ず「嗚呼」で始めた。こう言った。「これは乱世の書である。私は春秋の法を用い、その趣旨を師とはするが、その文体をそのまま襲わない」。その論に言う。「昔、孔子が春秋を作ったのは、乱世に即して治めの法を立てるためであった。私が本紀を述べるのは、治めの法によって乱れた君主を正すためである」。これがその志である。書は旧史の半分に減らしたが、事跡は旧史に比べて数倍を加えた。論ずる者は、功績は司馬遷に劣らないと言った。また、筆力の走りようは互いに優劣を争うが、雑駁な説がない、記述の型の精密さに至っては司馬遷も及ばない、とも言った。またかつて言った。「私が伶官伝を作ったのは、どうして滑稽列伝に劣ろうか」。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修召されて唐書を撰す。又た自ら五代史を撰す。其の紀を爲るは一に春秋の法を用う。唐の禮樂志に於いては、前世の禮樂の本の一より出でて、後世の禮樂の空名と爲るを明らかにす。五行志には事應を書かず、盡く漢儒の災異附會の說を破る。其の論著は此に類す。五代史は辭約にして事備わり、及び前史の失を正すこと尤も多しと爲す。
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『宋名臣言行録』前集巻九・尹洙本朝の古文、栁開仲塗・穆修伯長、首として之が唱を爲す。師魯兄弟、其の後を繼ぐ。文忠公、蚤に偶儷の文に工なり。河南に宦するに及び、始めて師魯を得て、乃ち韓退之の文を出だして之を學ぶ。葢し公と師魯と、文に於て同じからずと雖も、公、古文を爲すは則ち師魯の後に居るなり。五代史の如きは、公嘗て師魯と分撰を約す。其の後、師魯死して子無し。今、歐陽公の五代史、之を學官に頒ちて世に盛行す。内に果たして師魯の文有るか。抑々歐陽公自ら之を爲れるか。歐公、師魯の墓を誌して其の文を論じて曰く、簡にして法有りと。且つ人に謂いて曰く、孔子の六經の中に在りて、惟だ春秋のみ當たる可しと。則ち歐公の師魯に於けるや薄からず。崇寧の間、神宗正史を改修す。歐公の傳に乃ち云う、同時に尹洙なる者有り。亦た古文を爲す。然れども洙の才は以て修を望むに足らずと。葢し史官、皆な晚學の小生にして、前軰の文章の淵源、自ら次第有るを知らざるなり。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公の文に於けるは天材餘り有り。豐約度に中たり、雍容俯仰、聲色を大にせずして義理自ずから勝る。短章大論、施して不可なる無し。之に效わんと欲する者有り。詭ならずんば則ち俗、淫ならずんば則ち陋。終に及ぶ可からず。是を以て當世に獨歩す。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公經術に於いて大本を究むるに務む。發明する所簡易明白なり。詩を論じて曰く、其の美刺を察して其の善惡を知り、以て勸戒と爲す。所謂聖人の志なる者は本なり。其の失傳に因りて妄りに自ら之が說を爲す者は經師の末なり。今學ぶ者、其の本を得て其の末に通ずれば斯れ善し。其の本を得て其の末に通ぜずんば、其の疑う所を闕くも可なり。諸儒に異なるを求めずと。嘗て曰く、先儒の經に於けるは失無き能わず。而れども得る所の者は固より多し。其の說を盡くして理に通ぜざる有り、然る後に得て之を論正す。予は異論を爲すを好むに非ざるなりと。其の詩・易に於けるは發明する所多し。詩本義を爲して改むる所百餘篇。其の餘は則ち曰く、毛・鄭の說是なり。復た何をか云わんやと。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修蘇内翰軾、公の文に序して曰く、漢より以來、道術の孔氏より出でずして天下を亂す者多し。晉は老莊を以て敗れ、梁は佛を以て亡ぶ。或いは之を正す莫きこと五百餘年。而る後に韓愈を得たり。學ぶ者以て孟氏に配す。蓋し庶幾からん。愈の後三百有餘年にして、而る後に歐陽子を得たり。其の學は韓愈・孟子を推して以て孔氏に達す。其の言は簡にして明、信にして通ず。物を引き類を連ね、之を至理に折して以て人心を服す。故に天下翕然として之を師尊して曰く、歐陽子は今の韓愈なりと。宋興りて七十餘年、民は兵を知らず。富ましめて之を教う。天聖・景祐に至りて極まれり。而れども斯の人は終に古に愧ずる有り。士も亦た陋に因り舊を守り、論は卑くして氣は弱し。歐陽氏一たび出でしより、天下爭いて自ら濯磨し、經に通じ古を學ぶを以て髙しと爲し、時を救い道を行うを以て賢と爲し、顔を犯し諫を納るるを以て忠と爲す。長育成就して嘉祐の末に至り、多士を號稱す。歐陽子の功多しと爲すと。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修權に貢舉を知す。是の時進士文を爲すに詭異を以て相い髙しとし、太學體と號す。文體大いに壞る。公之を患え、取る所は率ね詞義の古に近きを以て貴しと爲す。險怪を以て名を知らるる者に比しては、黜け去ること殆ど盡く。榜出でて怨議紛然たり。之を久しくして乃ち服す。然れども文章是れより變じて古に復す。