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宋名臣言行録 / 前集巻九・尹洙

本朝古文栁開仲塗穆修伯長首爲之唱師魯兄弟繼其後文忠公蚤工偶儷之文及宦河南始得師魯乃出韓退之之文學之盖公與師魯於文雖不同公爲古文則居師魯後也如五代史公嘗與師魯約分撰其後師魯死無子今歐陽公五代史頒之學官盛行於世内果有師魯之文乎抑歐陽公自爲之也歐公誌師魯墓論其文曰簡而有法且謂人曰在孔子六經中惟春秋可當則歐公於師魯不薄矣崇寧間改修神宗正史歐公傳乃云同時有尹洙者亦爲古文然洙才不足以望修云葢史官皆晚學小生不知前軰文章淵源自有次第也

新字:本朝古文栁開仲塗穆修伯長首為之唱師魯兄弟継其後文忠公蚤工偶儷之文及宦河南始得師魯乃出韓退之之文学之盖公与師魯於文雖不同公為古文則居師魯後也如五代史公嘗与師魯約分撰其後師魯死無子今欧陽公五代史頒之学官盛行於世内果有師魯之文乎抑欧陽公自為之也欧公誌師魯墓論其文曰簡而有法且謂人曰在孔子六経中惟春秋可当則欧公於師魯不薄矣崇寧間改修神宗正史欧公伝乃云同時有尹洙者亦為古文然洙才不足以望修云葢史官皆晩学小生不知前軰文章淵源自有次第也

書き下し

本朝の古文、栁開仲塗・穆修伯長、首として之が唱を爲す。師魯兄弟、其の後を繼ぐ。文忠公、蚤に偶儷の文に工なり。河南に宦するに及び、始めて師魯を得て、乃ち韓退之の文を出だして之を學ぶ。葢し公と師魯と、文に於て同じからずと雖も、公、古文を爲すは則ち師魯の後に居るなり。五代史の如きは、公嘗て師魯と分撰を約す。其の後、師魯死して子無し。今、歐陽公の五代史、之を學官に頒ちて世に盛行す。内に果たして師魯の文有るか。抑々歐陽公自ら之を爲れるか。歐公、師魯の墓を誌して其の文を論じて曰く、簡にして法有りと。且つ人に謂いて曰く、孔子の六經の中に在りて、惟だ春秋のみ當たる可しと。則ち歐公の師魯に於けるや薄からず。崇寧の間、神宗正史を改修す。歐公の傳に乃ち云う、同時に尹洙なる者有り。亦た古文を爲す。然れども洙の才は以て修を望むに足らずと。葢し史官、皆な晚學の小生にして、前軰の文章の淵源、自ら次第有るを知らざるなり。

現代語訳

本朝の古文は、柳開と穆修が最初に唱えた。尹洙の兄弟がその後を継いだ。欧陽脩は早くから対句の文が巧みであった。河南に勤めるようになって、はじめて尹洙を得て、そこで韓愈の文を取り出して学んだ。そもそも欧陽脩と尹洙とは、文において同じではなかったが、欧陽脩が古文を作るのは尹洙より後になる。『五代史』のようなものは、欧陽脩がかつて尹洙と分担して書く約束をした。その後、尹洙が死んで子が無かった。いま欧陽脩の『五代史』が学官に配られて世に盛んに行われている。その中に、はたして尹洙の文があるのだろうか。それとも欧陽脩が自分で書いたのだろうか。欧陽脩は尹洙の墓誌を書いてその文を論じて言った。「簡潔にして法がある」。そのうえ人に言った。「孔子の六経の中で、ただ『春秋』だけが当てはまる」。それなら、欧陽脩の尹洙に対する評価は薄くない。崇寧年間、神宗の正史を改修した。欧陽脩の伝にこう書かれた。「同じころに尹洙という者があった。やはり古文を書いた。しかし尹洙の才は、欧陽脩を望むに足りない」。おそらく史官はみな晩学の若造で、先輩たちの文章の源流に、それぞれ順序があることを知らなかったのである。

解説

誰が先だったかを、後世が書き換えた条です。**欧陽脩は河南で尹洙を得て、はじめて韓愈の文を取り出して学んだ。古文を作るのは尹洙より後になる。**当の欧陽脩は墓誌で**「簡潔にして法がある」「六経の中でただ『春秋』だけが当てはまる」**と評していました。ところが後の正史ではこうなります。**尹洙の才は、欧陽脩を望むに足りない。**編者の怒りが最後の一行に出ています。**史官はみな晩学の若造で、源流に順序があることを知らなかった。**

この章句が説くこと

公古文を為すは則ち師魯の後に居るなり欧公師魯の墓を誌して其の文を論じて曰く簡にして法有り洙の才は以て修を望むに足らず史官皆な晩学の小生なり系譜評価改竄

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