宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
知潁州時吕公之子公著為通判為人有賢行時人未知公還朝力薦之由是漸見擢用
新字:知潁州時呂公之子公著為通判為人有賢行時人未知公還朝力薦之由是漸見擢用
書き下し
潁州を知る時、呂公の子公著、通判と爲る。人と爲り賢行有り。時の人未だ知らず。公朝に還りて力めて之を薦む。是に由りて漸く擢用を見る。
現代語訳
潁州の知事であったとき、呂夷簡の子の公著が通判であった。人となりに賢い行いがあったが、当時の人はまだそれを知らなかった。欧陽脩は朝廷に戻って力を尽くしてこれを推薦した。これによってしだいに登用されるようになった。
解説
前の二条を読んだあとだと、三十四字がずしりときます。呂夷簡は、欧陽脩を三峡に落とした相手でした。その子が同じ役所に通判として来ています。しかもまだ無名でした。**人となりに賢い行いがあったが、当時の人はまだそれを知らなかった。**知らなければ、黙っていても誰も気づきません。**朝廷に戻って力を尽くしてこれを推薦した。**「道を学ぶこと三十年、得たものは心を平らかにして怨みや憎しみが無いということだけ」という自己申告が、ここで裏づけられています。
この章句が説くこと
呂公の子公著通判と為る人と為り賢行有り時の人未だ知らず公朝に還りて力めて之を薦む是に由りて漸く擢用を見る恨み推挙
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