宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
公在蔡屢乞致仕門下生蔡丞禧因間言曰公德望為朝廷倚重且未及引年豈容遽去公曰脩平生名節為後生描畫盡惟蚤退以全晚節豈可更俟驅逐乎
新字:公在蔡屡乞致仕門下生蔡丞禧因間言曰公徳望為朝廷倚重且未及引年豈容遽去公曰脩平生名節為後生描画尽惟蚤退以全晩節豈可更俟駆逐乎
書き下し
公蔡に在り、屢ミ致仕を乞う。門下生蔡丞禧、間に因りて言いて曰く、公の德望は朝廷の倚重する所なり。且つ未だ年を引くに及ばず。豈に遽かに去るを容れんやと。公曰く、脩が平生の名節は、後生の爲に描畫し盡くせり。惟だ蚤く退きて以て晩節を全うすべし。豈に更に驅逐を俟つ可けんやと。
現代語訳
欧陽脩は蔡州にあって、たびたび引退を願い出た。門下生の蔡丞禧が、折を見て言った。「公のご人望は朝廷の頼みとするところです。しかもまだ致仕の年齢には達しておられません。どうして急に去られることがありましょうか」。欧陽脩は言った。「脩の生涯の名節は、後の世代のために描き尽くした。ただ早く退いて、晩節を全うすべきだ。どうしてこのうえ、追い出されるのを待っていられようか」。
解説
引退を止められて、二つの理由を返しています。ひとつは、やるべきことが終わったという判断でした。脩の生涯の名節は、後の世代のために描き尽くした。見せるべき生き方は、もう見せた。もうひとつが、退き方の見積もりです。どうしてこのうえ、追い出されるのを待っていられようか。このまま居れば、遠からず追われる側になると分かっている。韓琦の「初めの節を保つのはたやすいが、終わりの節を保つのは難しい」と、同じところに着いています。
この章句が説くこと
公の徳望は朝廷の倚重する所なり且つ未だ年を引くに及ばず脩が平生の名節は後生の為に描画し尽くせり惟だ蚤く退きて以て晩節を全うすべし豈に更に駆逐を俟つ可けんや引退名節
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