宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
濮議初不出於公及臺諌有言公獨入辨於朝故議者指公為立議之人公不自辨唯曰今人以濮議為非使我獨當罪則韓曾二公宜有愧於我後世以濮議為是而獨稱我善則我宜愧於二公又撰濮議四巻悉記當時議論本末甚詳又於五代史記書晉元帝父敬儒周世宗父柴守禮事及李彦詢傳發明人倫父子之道尤為詳悉
新字:濮議初不出於公及台諌有言公独入弁於朝故議者指公為立議之人公不自弁唯曰今人以濮議為非使我独当罪則韓曽二公宜有愧於我後世以濮議為是而独称我善則我宜愧於二公又撰濮議四巻悉記当時議論本末甚詳又於五代史記書晉元帝父敬儒周世宗父柴守礼事及李彦詢伝発明人倫父子之道尤為詳悉
書き下し
濮議は初め公より出でず。臺諫の言有るに及び、公獨り入りて朝に辨ず。故に議する者、公を指して立議の人と爲す。公自ら辨ぜず。唯だ曰く、今人濮議を以て非と爲し、我をして獨り罪に當たらしめば、則ち韓・曾二公は宜しく我に愧ずる有るべし。後世濮議を以て是と爲して獨り我が善を稱せば、則ち我宜しく二公に愧ずべしと。又た濮議四巻を撰し、悉く當時の議論の本末を記すこと甚だ詳らかなり。又た五代史記に晉元帝の父敬儒・周世宗の父柴守禮の事及び李彦詢傳に於いて、人倫父子の道を發明すること尤も詳悉たり。
現代語訳
濮議は、もともと欧陽脩から出たものではない。台諫の言が出るに及んで、欧陽脩だけが朝廷に出て弁じた。それゆえ論ずる者は、欧陽脩を議論を立てた張本人と指した。欧陽脩は自ら弁解しなかった。ただこう言った。「いま人が濮議を非として、私だけに罪を当てるなら、韓琦と曾公亮の二人は私に恥じるところがあるはずだ。後世が濮議を是として、私だけの善を称えるなら、私のほうが二人に恥じるべきだ」。さらに『濮議』四巻を著し、当時の議論の始めから終わりまでをきわめて詳しく記した。また『五代史記』において、晋の元帝の父である敬儒、後周の世宗の父である柴守礼のこと、および李彦詢の伝で、人の倫理としての父子の道をとりわけ詳しく論じ明かした。
解説
濡れ衣を着せられて、弁解していません。かわりに、責任の勘定を両方向で立てました。**私だけに罪を当てるなら、二人は私に恥じるところがあるはずだ。後世が濮議を是として、私だけの善を称えるなら、私のほうが二人に恥じるべきだ。**非難が来ても、称賛が来ても、一人で受けるのはおかしい。同じ物差しを両側に当てているので、これは弁解になりません。そのうえで、記録のほうを残しました。**『濮議』四巻を著し、当時の議論の始めから終わりまでをきわめて詳しく記した。**
この章句が説くこと
濮議は初め公より出でず故に議する者公を指して立議の人と為す公自ら弁ぜず我をして独り罪に当たらしめば則ち韓曽二公は宜しく我に愧ずる有るべし後世濮議を以て是と為して独り我が善を称せば則ち我宜しく二公に愧ずべし責任称賛
関連する章句
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