宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
自嘉祐以後朝廷務惜名器而進人之路稍狹公屢建言館閤育材之地材既難得而又難知則當博采而多蓄之則傑然出為名臣矣餘亦不失為佳士也遂詔二府各舉五人
新字:自嘉祐以後朝廷務惜名器而進人之路稍狭公屢建言館閤育材之地材既難得而又難知則当博采而多蓄之則傑然出為名臣矣余亦不失為佳士也遂詔二府各舉五人
書き下し
嘉祐以後、朝廷名器を惜しむに務めて、人を進むるの路稍ミ狹し。公屢ミ建言す、館閣は材を育つるの地なり。材既に得難くして又た知り難くんば、則ち當に博く采りて多く之を蓄うべし。則ち傑然として出でて名臣と爲らん。餘も亦た佳士たるを失わずと。遂に二府に詔して各ミ五人を舉げしむ。
現代語訳
嘉祐年間以後、朝廷は官位を出し惜しむことに努め、人を登用する道はしだいに狭くなった。欧陽脩はたびたび建言した。「館閣は人材を育てる場所です。人材はもともと得がたいうえ、見分けることもまた難しいのですから、広く採って多く蓄えるべきです。そうすれば、抜きん出て名臣となる者が出ます。残りの者もまた、立派な士であることに変わりはありません」。そこで詔して、中書と枢密にそれぞれ五人ずつ推挙させた。
解説
登用を絞る側の理屈は明快です。官位を安売りしない。それに対する反論が、ここでは謙虚な形をとっています。**人材はもともと得がたいうえ、見分けることもまた難しい。**選ぶ側の目を信用しない、という前提から始めました。見分けられるなら絞ってよい。見分けられないなら、母数を増やすしかない。**広く採って多く蓄えるべきです。**そして外れを恐れていません。**残りの者もまた、立派な士であることに変わりはありません。**
この章句が説くこと
朝廷名器を惜しむに務めて人を進むるの路稍ミ狭し館閣は材を育つるの地なり材既に得難くして又た知り難くんば則ち当に博く采りて多く之を蓄うべし余も亦た佳士たるを失わず登用選考
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