宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
公求去益堅遂出判河陽自此與魏公歐公絶後公致政居洛毎嵗生日魏公不論逺近必遣使致書幣甚恭公但答以老病無書魏公之禮終不廢至薨乃巳天下兩賢之歐公魏公之薨也公皆不祭吊國史著公以不預䇿立英宗與魏公絶至此祭弔不通非也
新字:公求去益堅遂出判河陽自此与魏公欧公絶後公致政居洛毎歳生日魏公不論遠近必遣使致書幣甚恭公但答以老病無書魏公之礼終不廃至薨乃巳天下両賢之欧公魏公之薨也公皆不祭吊国史著公以不預策立英宗与魏公絶至此祭弔不通非也
書き下し
公去るを求むること益ミ堅く、遂に出でて河陽を判す。此れより魏公・歐公と絶つ。後に公政を致して洛に居る。毎歳の生日、魏公は遠近を論ぜず、必ず使いを遣わして書幣を致すこと甚だ恭し。公は但だ答うるに老病を以てし、書無し。魏公の禮は終に廢せず、薨ずるに至りて乃ち已む。天下之を兩つながら賢とす。歐公・魏公の薨ずるや、公皆祭弔せず。國史に、公の英宗の策立に預からざるを以て魏公と絶つと著すも、此に至りて祭弔通ぜざるは非なり。
現代語訳
富弼は辞去を求めることがいよいよ堅く、ついに外に出て河陽の長官となった。これより韓琦・欧陽脩と絶交した。後に富弼は政を退いて洛陽に住んだ。毎年の誕生日には、韓琦は遠近を問わず、必ず使いを遣わして書状と贈り物を届け、はなはだ丁重であった。富弼はただ老いと病を理由に答えるだけで、返書は書かなかった。韓琦のこの礼はついに廃れず、韓琦が薨ずるまで続いた。天下は二人ともを賢とした。欧陽脩と韓琦が薨じたとき、富弼はどちらにも弔いをしなかった。国史には、富弼が英宗の擁立に加わらなかったので韓琦と絶交したと書いてあるが、そこから弔いも通じなくなったとするのは誤りである。
解説
絶交が、片方だけの行為として続いた記録です。富弼は会いませんでした。韓琦のほうは、やめませんでした。**毎年の誕生日には、遠近を問わず、必ず使いを遣わして書状と贈り物を届け、はなはだ丁重であった。**返事は来ません。**富弼はただ老いと病を理由に答えるだけで、返書は書かなかった。**それが死ぬまで続きます。**韓琦のこの礼はついに廃れず、韓琦が薨ずるまで続いた。**そして編者は、どちらかを責めませんでした。**天下は二人ともを賢とした。**
この章句が説くこと
此れより魏公欧公と絶つ毎歳の生日魏公は遠近を論ぜず必ず使いを遣わして書幣を致すこと甚だ恭し公は但だ答うるに老病を以てし書無し魏公の礼は終に廃せず薨ずるに至りて乃ち已む天下之を両つながら賢とす絶交礼
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