宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
歐公為叅政首議追尊濮王公曰歐公讀書知禮法所以為此舉者忘仁宗累主上欺韓公爾公因辭執政例遷官䟽言甚危三日不報見英宗面奏曰仁宗之立陛下皇太后之功也今皇太后謂臣與胡宿吴奎等曰無夫婦人無所告至不忍聞臣實痛之豈仁宗所望於陛下哉以笏指御床曰非陛下有孝德孰可居此英宗俯躬曰不敢
新字:欧公為参政首議追尊濮王公曰欧公読書知礼法所以為此舉者忘仁宗累主上欺韓公爾公因辞執政例遷官䟽言甚危三日不報見英宗面奏曰仁宗之立陛下皇太后之功也今皇太后謂臣与胡宿呉奎等曰無夫婦人無所告至不忍聞臣実痛之豈仁宗所望於陛下哉以笏指御床曰非陛下有孝徳孰可居此英宗俯躬曰不敢
書き下し
歐公參政と爲り、首めて濮王を追尊せんことを議す。公曰く、歐公は書を讀み禮法を知る。此の舉を爲す所以の者は、仁宗を忘れ主上を累わし韓公を欺くのみと。公因りて執政の例遷官を辭す。疏の言うこと甚だ危うし。三日報ぜられず。英宗に見えて面奏して曰く、仁宗の陛下を立つるは皇太后の功なり。今皇太后、臣と胡宿・吳奎等に謂いて曰く、夫無き婦人にして告ぐる所無しと。至って聞くに忍びず。臣實に之を痛む。豈に仁宗の陛下に望む所ならんやと。笏を以て御床を指して曰く、陛下に孝德有るに非ずんば、孰か此に居る可けんやと。英宗躬を俯して曰く、敢えてせずと。
現代語訳
欧陽脩が参政となり、まず濮王を追尊することを議した。富弼は言った。「欧陽脩は書を読み、礼法を知っている人だ。この挙を起こす理由は、仁宗を忘れ、主上に累を及ぼし、韓琦を欺くというだけのことだ」。富弼はそこで執政に慣例で与えられる昇官を辞退した。その上疏の言葉ははなはだ際どかった。三日返事がなかった。英宗に拝謁して、面と向かって奏上した。「仁宗が陛下をお立てになったのは、皇太后のお力です。いま皇太后は、臣と胡宿・呉奎らに『夫のない婦人で、訴える先もない』と仰せられました。とても聞くに堪えません。臣は実にこれを痛みます。これがどうして仁宗が陛下に望まれたことでありましょうか」。笏で御床を指して言った。「陛下に孝の徳がおありでなければ、誰がここにお座りになれましょうか」。英宗は身をかがめて言った。「そのようなことはしない」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷上・第百三十一條父に争子有れば、則ち身不義に陥らず。故に不義に当りては、則ち子以て父に争はざるべからず。故に人の父たる者は、此の子有るを願はざるべからざるなり。此の子有れば、則ち躬君子と為り、此の子無ければ、則ち上智に非ざる自りは、大凡夷狄禽獣に陥ること必せり。之を思へば悚然たり。
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『初学訓』巻之二一もし、父母の身に過あらば、子たる者、わが顔を悦ばしめ、声を和らげ、言をゆるやかにして、やうやく諫むべし。父母いさめを用ひずして、かへつて怒らば、諫をまづ止むべし。父母の心にそむくべからず。時過ぎて、父母のけしきよき時、又いさむべし。はげしく諫めて、父母の心にさからふべからず。
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『翁問答』上卷之本扨又己れの力らに従ひて、充分に心力を尽し、苦身を顧みす、我身と妻子の私用を第二として、一家の内にての食物の滋味を備へ、衣服の軽煖を捧げ、いかにも愉色を尽し、父母の受け悦はるゝ様に取なし、若又病ある時は良医の療治を求め、看病の労を尽しぬるは、能く養ふの大槪なり、若又父母不義あらば、何と無く父母感悟ある様に諫むべし、若又父母悦ばずして怒りを成さば、別して色を悦ばしめ、孝を起し敬を起して、親の怒に逆ふべからず、如此幾度も諫め或は親の相ひ口の友を頼みて諫むべし、親には道を悟らしむる様にするが、孝の第一なり、父母既に天年限り在て、永き別れの憂へに当る時は、哀み誠を尽し礼法を以て葬を成し、喪に居て哀戚を尽し宗廟祠堂を立て、鬼神に事へ、四時俗節忌日の祭には、誠敬を尽して合奠の孝を押極むるを、子の孝と云なり、
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史記 袁盎鼂錯列伝淮南厲王朝し、辟陽侯を殺し、居処驕ること甚だし。袁盎諫めて曰く、「諸侯大いに驕れば必ず患を生ず、適(まさ)に地を削るべし」と。上用ひず。淮南王益ます横なり。棘蒲侯柴武の太子の謀反の事覚(あらは)れ、治むるに及び、淮南王に連なる。淮南王徴され、上因りて之を蜀に遷し、轞車にて伝送す。袁盎時に中郎将たり、乃ち諫めて曰く、「陛下素より淮南王を驕らせ、稍(や)や禁ぜず、以て此に至る。今又暴かに之を摧折す。淮南王は人と為り剛なり、如し霧露に遇ひて道に行きて死すること有らば、陛下竟に天下の大を以て容るる能はずと為し、弟を殺すの名有らん、奈何」と。上聴かず、遂に之を行ふ。淮南王雍に至り、病みて死す。聞こゆるや、上食を輟め、哭すること甚だ哀し。盎入り、頓首して罪を請ふ。上曰く、「公の言を用ひざるを以て此に至る」と。盎曰く、「上自ら寛うせよ。此れ往事なり、豈に悔ゆべけんや。且つ陛下に高世の行ひなる者三有り、此れ以て名を毀るに足らず」と。上曰く、「吾が高世の行ひ三なる者は何事ぞ」と。盎曰く、「陛下代に居りし時、太后嘗て病むこと三年、陛下睫を交へず、衣を解かず、湯薬は陛下の口の嘗むる所に非ざれば進めず。夫れ曾参は布衣を以て猶ほ之を難しとす。今陛下親ら王者を以て之を修む、曾参の孝に過ぐること遠し。夫れ諸呂事を用ひ、大臣専制す。然れども陛下代より六伝に乗りて不測の淵に馳す、賁育の勇と雖も陛下に及ばず。陛下代邸に至り、西に向かひて天子の位を譲ること再び、南面して天子の位を譲ること三たび。夫れ許由は一たび譲るのみ、而るに陛下は五たび天下を以て譲る、許由に過ぐること四なり。且つ陛下の淮南王を遷すは、以て其の志を苦しめ、過ちを改めしめんと欲するなり。有司の衛ること謹まず、故に病死す」と。是に於て上乃ち解け、曰く、「将に奈何せん」と。盎曰く、「淮南王に三子有り、唯だ陛下に在るのみ」と。是に於て文帝其の三子を立てて皆王と為す。盎此に由りて名朝廷に重し。袁盎常に大体を引きて慨(がい)す。
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礼記・曲礼下天子は出(しゅつ)と言わず、諸侯は生きながら名いわず。君子は悪を親しまず。諸侯地を失えば名いい、同姓を滅ぼせば名いう。 人臣たるの礼は、顕(あら)わには諫めず。三たび諫めて聴かれざれば、則ちこれを逃(さ)る。子の親に事(つか)うるや、三たび諫めて聴かれざれば、則ち号泣してこれに随う。 君疾(やまい)有りて薬を飲むときは、臣先ずこれを嘗(な)む。親疾有りて薬を飲むときは、子先ずこれを嘗む。医三世ならざれば、其の薬を服せず。人に儗(なぞら)うるには必ず其の倫(たぐい)に於いてす。
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荀子・子道篇魯の哀公、孔子に問いて曰く、「子、父の命に従うは、孝なるか。臣、君の命に従うは、貞なるか」と。三たび問うも、孔子対(こた)えず。孔子趨(はし)り出でて以て子貢に語りて曰く、「郷者(さきごろ)、君、丘(きゅう)に問いて曰く、『子、父の命に従うは孝なるか。臣、君の命に従うは貞なるか』と。三たび問うも丘対えず。賜(し)、以て何如(いかん)と為す」と。子貢曰く、「子、父の命に従うは孝なり。臣、君の命に従うは貞なり。夫子、奚(なん)の対うること有らんや」と。孔子曰く、「小人なるかな。賜、識(し)らざるなり。昔、万乗の国に争臣(そうしん)四人有れば、則ち封疆(ほうきょう)削られず。千乗の国に争臣三人有れば、則ち社稷(しゃしょく)危うからず。百乗の家に争臣二人有れば、則ち宗廟毀(こぼ)たれず。父に争子(そうし)有れば、無礼を行わず。士に争友有れば、不義を為さず。故に子、父に従うも、奚ぞ子の孝ならん。臣、君に従うも、奚ぞ臣の貞ならん。其の従う所以を審(つまび)らかにする、之を孝と謂い、之を貞と謂うなり」と。

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