宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
公與魏公同在中書公母老矣一日語及故事宰相有起復視事者魏公曰此非朝廷盛事已而公居母憂朝廷屢詔起之上章三辭貼黄言臣在中書嘗與韓言之决不當起魏公嘆曰吾但以實言之不料以為怨自此二人稍稍有隙
新字:公与魏公同在中書公母老矣一日語及故事宰相有起復視事者魏公曰此非朝廷盛事已而公居母憂朝廷屢詔起之上章三辞貼黄言臣在中書嘗与韓言之決不当起魏公嘆曰吾但以実言之不料以為怨自此二人稍稍有隙
書き下し
公、魏公と同じく中書に在り。公の母老いたり。一日、語故事に及ぶ。宰相に起復して事を視る者有りと。魏公曰く、此れ朝廷の盛事に非ずと。已にして公母の憂に居る。朝廷屢ミ詔して之を起こす。章を上りて三たび辭す。貼黄に言う、臣中書に在るとき嘗て韓と之を言えり。決して當に起こすべからずと。魏公嘆じて曰く、吾但だ實を以て之を言うのみ。以て怨みと爲すを料らざりきと。此れより二人稍稍隙有り。
現代語訳
富弼は韓琦とともに中書省にいた。富弼の母は年老いていた。ある日、話が先例に及んだ。宰相で喪に服したのち復帰して執務した者がいる、と。韓琦は言った。「これは朝廷の立派な事ではない」。やがて富弼は母の喪に服した。朝廷はたびたび詔して復帰させようとした。上章して三度辞退した。付箋に書いて言った。「臣が中書におりましたとき、かつて韓琦とこのことを話しました。決して復帰させるべきではありません」。韓琦は嘆じて言った。「私はただ本当のことを言っただけだ。それが怨みになるとは思わなかった」。これより二人は少しずつ隙を生じた。
解説
雑談の中の一般論が、後で名指しの根拠になった条です。韓琦が言ったときは、誰の話でもありませんでした。**これは朝廷の立派な事ではない。**それが、富弼が辞退する段になって、証拠として引かれます。**臣が中書におりましたとき、かつて韓琦とこのことを話しました。**引用そのものは正確です。ただ、公の文書に名前が出た時点で、韓琦は反対の側に立たされました。**私はただ本当のことを言っただけだ。それが怨みになるとは思わなかった。**二人の隙は、悪意ではなく引用から始まっています。
この章句が説くこと
宰相に起復して事を視る者有り此れ朝廷の盛事に非ず臣中書に在るとき嘗て韓と之を言えり決して当に起こすべからず吾但だ実を以て之を言うのみ以て怨みと為すを料らざりき発言引用
関連する章句
-
『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦他日、光獻中書に對して泣きて英宗の疾中の語言起居の狀を訴う。繼いで樞密院に對する語も亦た前の如し。富弼公に謂いて曰く、適ま簾下の說を聞くや否や。弼は聞くに忍びずと。蓋し富の意も亦た太后の意を以て然りと爲し、而して咎を英宗に歸するなり。公、力めて太后に簾を徹せんことを勸むるに及び、敢えて富公をして預り聞かしめず。後に中書已に光獻の旨を得て政を還すも、密院は猶お未だ知らざるなり。手書の出づるに迨びて、富公愕然たり。此に因りて悦ばず。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・富弼公去るを求むること益ミ堅く、遂に出でて河陽を判す。此れより魏公・歐公と絶つ。後に公政を致して洛に居る。毎歳の生日、魏公は遠近を論ぜず、必ず使いを遣わして書幣を致すこと甚だ恭し。公は但だ答うるに老病を以てし、書無し。魏公の禮は終に廢せず、薨ずるに至りて乃ち已む。天下之を兩つながら賢とす。歐公・魏公の薨ずるや、公皆祭弔せず。國史に、公の英宗の策立に預からざるを以て魏公と絶つと著すも、此に至りて祭弔通ぜざるは非なり。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・富弼英宗疾を以て朝を視る能わず。大臣光獻に垂簾せんことを請う。后之を辭するも獲ず、乃ち從う。英宗纔かに康復するや、后已に手書を下して復辟す。魏公奏す、臺諫に章疏有り、太后に早く政を復せんことを請うと。后之を聞きて遽かに起つ。魏公亟かに儀鑾司をして簾を撤せしむ。后猶お未だ御屏を轉ぜず、尚お其の衣を見るなり。時に公樞密相爲り。魏公の撤簾の事を關報せざるを怪しむ。魏公は弼を滅族の地に致さんと欲すとの語有り。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・富弼熙寧中、公相を罷めて亳を鎮す。常に深居して疾を養い、罕にしか出でて事を視ず。幕府の事に命を稟くるを須つ者は、常に狀を以て公に白す。公數字を紙尾に批するに、其の理を盡くさざる莫し。或いは事に決し難く、幕府憂疑して手を措く能わざる者有り、相い與に公に見えんことを求む。公一二言を以て裁處し、徐ろに他事を語る。幕府曉然として、率ね常に其の疑う所を失う。退きて歎服し、以て及ぶ可からずと爲す。公は早く強敵に使いし、片言を以て狂謀を折り中國を尊くす。大政を總ぶるに及びては、天下の事を視ること爲すに足らざるが若し。矧んや一郡に退き處るをや。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・富弼英宗臨御す。一日、韓公數宦者の策立に勞有れば當に官を遷すべきを進擬す。公曰く、先帝は神器を陛下に付す。此の輩何の功か書す可きやと。韓愧色有り。後に韓長安に帥たり。范堯夫の爲に其の事を言いて曰く、琦は便ち富公を怕るるなりと。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・富弼事還りて吏部郎中・樞密直學士を除せらる。辭して受けず。始め命を受くるや一女の卒するを聞き、再び命を受くるや一男の生まるるを聞く。皆顧みずして行く。家書を得るも發かずして之を焚きて曰く、徒らに人の意を亂すのみと。尋いで翰林學士に遷る。公上に見えて力めて辭して曰く、幣を增すは臣の本志に非ざるなり。特だ朝廷方に元昊を討ち、未だ敵と角するに暇あらざるを以て、故に敢えて死を以て爭わざりしのみと。