宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
他日光獻對中書泣訴英宗疾中語言起居狀繼而樞密院對語亦如前富弼謂公曰適聞簾下說否弼不忍聞盖富意亦以太后之意為然而歸咎於英宗及公力勸太后徹簾不敢令冨公預聞後中書已得光獻㫖還政宻院猶未知也迨手書出富公愕然因此不恱
新字:他日光献対中書泣訴英宗疾中語言起居状継而枢密院対語亦如前富弼謂公曰適聞簾下説否弼不忍聞盖富意亦以太后之意為然而帰咎於英宗及公力勧太后徹簾不敢令冨公預聞後中書已得光献旨還政宻院猶未知也迨手書出富公愕然因此不恱
書き下し
他日、光獻中書に對して泣きて英宗の疾中の語言起居の狀を訴う。繼いで樞密院に對する語も亦た前の如し。富弼公に謂いて曰く、適ま簾下の說を聞くや否や。弼は聞くに忍びずと。蓋し富の意も亦た太后の意を以て然りと爲し、而して咎を英宗に歸するなり。公、力めて太后に簾を徹せんことを勸むるに及び、敢えて富公をして預り聞かしめず。後に中書已に光獻の旨を得て政を還すも、密院は猶お未だ知らざるなり。手書の出づるに迨びて、富公愕然たり。此に因りて悦ばず。
現代語訳
後日、光献(曹太后)は中書の面前で泣いて、英宗の病中の言葉や起き臥しの様子を訴えた。続いて枢密院に対して語ったことも前と同じだった。富弼は韓琦に言った。「いま簾の下での話をお聞きになったか。私は聞くに忍びない」。思うに富弼の考えもまた太后の言い分をもっともだとし、咎を英宗に帰していたのである。韓琦が力を尽くして太后に簾を撤するよう勧めるにあたっては、あえて富弼には知らせなかった。のちに中書はすでに光献の還政の旨を得ていたのに、枢密院はまだ知らなかった。太后の自筆の書が出るにおよんで、富弼は愕然とした。このことで機嫌を損ねた。
解説
同じ場で同じ訴えを聞いて、二人の受け取り方が分かれた条です。富弼は**聞くに忍びない**と言い、太后の言い分をもっともだとして、咎を天子に置きました。韓琦は還政を進める側に立っています。そこで韓琦は、同僚に知らせずに事を運びました。**あえて富弼には知らせなかった。**結果、枢密院だけが知らないまま自筆の書が出て、富弼は愕然とし、機嫌を損ねます。ここを編者は隠していません。事を通した代わりに人を失った、という記録として、そのまま残しています。
この章句が説くこと
適ま簾下の説を聞くや否や弼は聞くに忍びず公力めて太后に簾を徹せんことを勧むるに及び敢えて富公をして預り聞かしめず手書の出づるに迨びて富公愕然たり此に因りて悦ばず判断対立機密
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