宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
至和間公當國立一舉三十年推恩之法盖公與河南進士叚希元魏升平同塲屋相善公作相不欲私之故為天下之制至今行之
新字:至和間公当国立一舉三十年推恩之法盖公与河南進士叚希元魏升平同塲屋相善公作相不欲私之故為天下之制至今行之
書き下し
至和の間、公國に當たり、一舉三十年推恩の法を立つ。蓋し公と河南の進士段希元・魏升平と場屋を同じくして相い善し。公相と作り、之を私するを欲せず。故に天下の制と爲す。今に至るまで之を行う。
現代語訳
至和年間、富弼が国政に当たり、科挙に一度応じてから三十年を経た者に恩を及ぼす法を立てた。思うに、富弼は河南の進士である段希元・魏升平と受験の場を同じくして親しかった。富弼は宰相となったが、それを私することを望まなかった。だから天下の制度とした。今に至るまでこれを行っている。
解説
親しい友人が、長年受からずにいました。宰相なのですから、二人を何とかする道はいくらでもあります。富弼は宰相となったが、それを私することを望まなかった。そこで、同じ境遇の全員が救われる法にしました。科挙に一度応じてから三十年を経た者に恩を及ぼす。二人のために作ったのに、二人の名前はどこにも出てきません。そして残りました。今に至るまでこれを行っている。個別に手心を加えていたら、その日だけの話で終わっていました。
この章句が説くこと
一舉三十年推恩の法を立つ公と河南の進士段希元魏升平と場屋を同じくして相い善し公相と作り之を私するを欲せず故に天下の制と為す今に至るまで之を行う私情制度
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