宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
元昊遣使以書來稱男而不稱臣公言契丹臣元昊而我不臣則契丹為無敵於天下不可許乃却其使卒臣之七月契丹來告舉兵討元昊十二月詔冊元昊為夏國主使將行而止之以俟虜使公曰若虜使未至而行則事自我出既至則恩歸契丹矣從之
新字:元昊遣使以書来称男而不称臣公言契丹臣元昊而我不臣則契丹為無敵於天下不可許乃却其使卒臣之七月契丹来告舉兵討元昊十二月詔冊元昊為夏国主使将行而止之以俟虜使公曰若虜使未至而行則事自我出既至則恩帰契丹矣従之
書き下し
元昊使いを遣わし書を以て來たる。男と稱して臣と稱せず。公言う、契丹は元昊を臣とす。而るに我臣とせずんば、則ち契丹は天下に敵無しと爲る。許す可からずと。乃ち其の使いを卻け、卒に之を臣とす。七月、契丹來たりて兵を舉げて元昊を討つを告ぐ。十二月、元昊を冊して夏國主と爲すを詔す。使い將に行かんとして之を止め、以て虜使を俟たんとす。公曰く、若し虜使未だ至らずして行かば、則ち事我より出づ。既に至らば則ち恩は契丹に歸せんと。之に從う。
現代語訳
元昊が使いを遣わして書を持って来させた。「男」と称して「臣」とは称さなかった。富弼は言った。「契丹は元昊を臣としております。それなのに我が国が臣としなければ、契丹は天下に並ぶ者なしということになります。許してはなりません」。そこでその使者を退け、ついに元昊を臣とした。七月、契丹が来て、兵を挙げて元昊を討つと告げた。十二月、元昊を冊立して夏国主とする詔が出た。使者がまさに出発しようとするのを止め、契丹の使者を待とうとした。富弼は言った。「もし契丹の使者がまだ来ないうちに出発すれば、事は我が国から出たことになります。すでに来てからでは、恩は契丹に帰します」。この意見に従った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公八年 河の清むを俟つ冬、楚の子囊、鄭を伐つ。其の蔡を侵ししを討つなり。子駟・子國・子耳は、楚に從はんと欲す。子孔・子蟜・子展は、晉を待たんと欲す。子駟曰く、「周詩に之有り、曰く、『河の清むを俟たば、人の壽幾何ぞ。兆に云ふ、詢(はか)ること多ければ、職(つね)に競ひて羅を作す』と。之を謀ること族多く、民の違ふこと多ければ、事滋(ますま)す成ること無し。民急なり。姑く楚に從ひて以て吾が民を紓(ゆる)めん。晉の師至らば、吾又之に從はん。敬みて幣帛を共(そな)へて、以て來る者を待つは、小國の道なり。犧牲玉帛、二竟に待ちて、以て彊き者を待ちて民を庇ふ。寇害を爲さず、民罷病せず、亦た可ならずや」と。子展曰く、「小の大に事ふる所以は、信なり。小國にして信無くんば、兵亂日に至り、亡ぶること日無からん。五會の信、今將に之に背かんとす。楚我を救ふと雖も、將た安くにか之を用ゐん。我に親しむも成ること無く、我を鄙とするを是れ欲す。從ふべからず。晉を待つに如かず。晉君方に明らかに、四軍闕くること無く、八卿和睦す。必ず鄭を棄てじ。楚の師は遼遠にして、糧食將に盡きんとす。必ず將に速やかに歸らんとす。何ぞ患へん。舍之之を聞く、杖(よ)るは信に如くは莫し、と。守りを完くして以て楚を老(つか)れしめ、信に杖りて以て晉を待つ、亦た可ならずや」と。
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言志四録・言志録 第百八十二条 幾の至るを候つ処し難きの事に遇はば、妄動するを得ず。須らく幾の至るを候ちて之に応ずべし。
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『呻吟語』内篇・問學・日落ちて城門に趕る日落ちて城門に趕る。一腳遲ければ便ち關ざされたり。何處にか止宿せん。故に學は時に及ぶを貴ぶ。懸崖に孤樹を抱く。一手鬆かなれば便ち脫れたり。何處にか身を落とさん。故に學は力を著くるを貴ぶ。故に老大に傷悲するも、時を追はんと要せば除は是れ再生なり。既に將に得んとするに失ふも、仍前ならんと要せば除は是れ頭より從ふなり。
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史記 周本紀明年、犬戎を伐つ。明年、密須を伐つ。明年、耆国を敗る。殷の祖伊之を聞き、懼れて、以て帝紂に告ぐ。紂曰く、「天命有らずや。是れ何をか能く為さん」と。明年、邘を伐つ。明年、崇侯虎を伐つ。而して豊邑を作り、岐下より徙りて豊に都す。明年、西伯崩じ、太子発立つ。是を武王と為す。西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚はるるや、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す。詩人西伯を道ふに、蓋し命を受けし年に王を称して虞・芮の訟を断ずと。後十年にして崩じ、謚して文王と為す。法度を改め、正朔を制す。古公を追尊して太王と為し、公季を王季と為す。蓋し王の瑞は太王より興る。武王即位し、太公望を師と為し、周公旦を輔と為し、召公・畢公の徒王を左右し、師として文王の緒業を修む。九年、武王上りて畢に祭る。東のかた兵を観し、盟津に至る。文王の木主を為り、載するに車を以てし、中軍とす。武王自ら太子発と称し、文王を奉じて以て伐つと言ひ、敢へて自ら専らにせず。乃ち司馬・司徒・司空・諸節に告ぐ、「斉栗せよ、信なるかな。予無知なれども、先祖に徳臣有るを以て、小子先功を受け、畢く賞罰を立て、以て其の功を定めん」と。遂に師を興す。師尚父号して曰く、「爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与にせよ。後れて至る者は斬らん」と。武王河を渡り、中流にして、白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る。既に渡るに、火有りて上より下に復り、王屋に至りて、流れて烏と為る。其の色赤く、其の声魄なりと云ふ。是の時、諸侯期せずして盟津に会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「女未だ天命を知らず、未だ可ならず」と。乃ち師を還して帰る。居ること二年、紂の昏乱暴虐滋甚だしく、王子比干を殺し、箕子を囚ふと聞く。太師疵・少師彊其の楽器を抱きて周に奔る。
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史記 田敬仲完世家田忌曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘れずして之を救はば、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受け、顧って反りて命を韓に聴くなり。且つ魏に国を破るの志有り。韓亡びんとするを見ば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親しみを結びて晩く魏の獘を承けば、則ち利を重ねて尊名を得べきなり」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、東のかた国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、大いに之を馬陵に敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜にす。其の後三晋の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟ひて去る。七年、魏王と平阿の南に会す。明年、復た甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王とす。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏に灌ぐ。兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。宣王文学游説の士を喜ぶ。騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒の如きより七十六人、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論せしむ。是を以て斉の稷下の学士復た盛んにして、且に数百千人ならんとす。十九年、宣王卒し、子湣王地立つ。湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲む。秦屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁する有らん。其の事を為すこと甚だ完し。楚をして公を利せしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為さん。

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