宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
北主曰卿勿固執古已有之公曰自古惟唐髙祖借兵於突厥故臣事之當時或稱獻納則不可知其後頡利為唐太宗所擒豈復有此事哉公聲色俱厲敵知不可奪曰吾當自遣人議之
新字:北主曰卿勿固執古已有之公曰自古惟唐高祖借兵於突厥故臣事之当時或称献納則不可知其後頡利為唐太宗所擒豈復有此事哉公声色倶厲敵知不可奪曰吾当自遣人議之
書き下し
北主曰く、卿固執する勿かれ。古より已に之有りと。公曰く、古より惟だ唐の高祖のみ兵を突厥に借る。故に之に臣事す。當時或いは獻納と稱するかは則ち知る可からず。其の後、頡利は唐の太宗の擒うる所と爲る。豈に復た此の事有らんやと。公聲色倶に厲し。敵奪う可からざるを知りて曰く、吾當に自ら人を遣わして之を議すべしと。
現代語訳
北の主は言った。「卿よ、固執するな。古くからこれはあったことだ」。富弼は言った。「古来ただ唐の高祖だけが突厥に兵を借りました。だからこれに臣として仕えたのです。当時『献』や『納』と称したかどうかは分かりません。その後、頡利可汗は唐の太宗に生け捕りにされました。どうしてまたこのような事がありましょうか」。富弼は声も顔色も厳しかった。敵は押し切れないと知って言った。「私のほうから人を遣わして、これを議することにしよう」。
解説
先例を持ち出されたら、その先例の続きを言う。それだけの返し方です。**古来ただ唐の高祖だけが突厥に兵を借りました。だからこれに臣として仕えたのです。**まず、その例が特殊な事情の産物だったと限定します。そして続きを置きました。**その後、頡利可汗は唐の太宗に生け捕りにされました。**先例のとおりにするなら、その先例の結末まで引き受けることになる。相手が突厥の側だと分かって言っています。**富弼は声も顔色も厳しかった。**ここまで穏やかに運んできた人が、二文字のところで初めて色を変えました。
この章句が説くこと
卿固執する勿かれ古より已に之有り古より惟だ唐の高祖のみ兵を突厥に借る故に之に臣事す其の後頡利は唐の太宗の擒うる所と為る公声色倶に厲し敵奪う可からざるを知る先例反論
関連する章句
-
尚書・周官古に學びて官に入り、事を議するに制を以てすれば、政乃ち迷わず。
-
論語・先進篇顔淵死す。顔路、子の車を請いて以て之が槨を為らんとす。子曰く、「才も不才も、亦た各々其の子と言うなり。鯉や死せるとき、棺有りて槨無し。吾徒行して以て之が槨を為らず。吾大夫の後に従うを以て、徒行す可からざるなり。」
-
説苑・建本子路、孔子に問いて曰わく、「請う古の学を釈きて由の意を行わん、可なるか」と。孔子曰わく、「不可なり。昔者東夷諸夏の義を慕い、女有り、其の夫死するや、之が為に内に私かに婿し、身を終うるまで嫁がず、嫁がざれば則ち嫁がざるなり、然れども貞節の義に非ざるなり。蒼梧の弟、妻を娶りて美好なれば、兄と易えんことを請う、忠なれば則ち忠なり、然れども礼に非ざるなり。今子古の学を釈きて子の意を行わんと欲す、庸ぞ子の非を用いて是と為し、是を用いて非と為すを知らんや。其の初めに順わずんば、悔いんと欲すと雖も、難きかな」と。
-
『塩鉄論』結和篇文學曰く、秦は南のかた勁き越を禽にし、北のかた強き胡を卻け、中國を竭くして以て四夷を役す。人罷れ極まりて主は恤まず、國內潰えて上は知らず。是を以て一夫倡えて天下和し、兵は陳涉に破られ、地は諸侯に奪わる。何ぞ嗣の利する所あらんや。《詩》に云う、「雍雍として鳴く鳱、旭日始めて旦らかなり」と。徒に前利を得て、後の咎を念わず。故に吳王は齊を伐つの便を知りて、干遂の患いを知らず。秦は進取の利を知りて、鴻門の難を知らず。是れ一を知りて十を知らざるなり。周は小を謹みて大を得、秦は大を欲して小を亡う。語に曰く、「前車覆れば、後車の戒め」と。「殷鑒遠からず、夏后の世に在り」と。
-
『塩鉄論』論功篇大夫曰く、魯連に言有り、「秦は權もて其の士を使い、虜もて其の民を使う」と。故に政急にして長からず。高皇帝は命を受けて暴亂を平らぐ。功德巍巍として、惟れ天と大を同じくす。而して文・景は緒を承けて之を潤色す。先帝の不義を征し、無德を攘い、以て仁聖の路を昭らかにし、至德の基を純らかにするに及ぶ。聖王累年仁義の積みなり。今、文學は亡國失政の治を引きて、之を今に況う。其の匈奴を圖り難しと謂うも、宜なるかな。
-
『宋名臣言行録』前集巻四・冦凖章聖、嘗て兩府に謂いて、一人を擇びて馬步軍指揮使と為さんと欲す。公方に其の事を議す。吏の文籍を以て進むる者有り。公其の故を問う。曰く、例簿なりと。公曰く、今、朝廷、一牙官を用いんと欲す。尚お例を檢するを須つか。安んぞ我輩を用いんや。國政を壊る者は、正に此に由るのみと。