宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
乃以公接伴英等入境上遣中使勞之英托足疾不拜公曰吾嘗使北病卧車中聞命輙起拜今中使至而公不起見何邪英矍然起拜公開懷與語不以夷狄待之英等遂去左右密以其主所欲者告公且曰可從從之不可從更以一事塞之
新字:乃以公接伴英等入境上遣中使労之英托足疾不拝公曰吾嘗使北病臥車中聞命輙起拝今中使至而公不起見何邪英矍然起拝公開懐与語不以夷狄待之英等遂去左右密以其主所欲者告公且曰可従従之不可従更以一事塞之
書き下し
乃ち公を以て英等を接伴せしむ。境に入る。上、中使を遣わして之を勞う。英、足疾に托して拜せず。公曰く、吾嘗て北に使いす。病みて車中に臥するも、命を聞けば輒ち起ちて拜せり。今中使至るに、而して公起たざるは、何を見てぞやと。英矍然として起ちて拜す。公懷を開きて與に語り、夷狄を以て之を待たず。英等遂に去るに、左右密かに其の主の欲する所の者を以て公に告ぐ。且つ曰く、從う可くんば之に從え。從う可からずんば、更に一事を以て之を塞げと。
現代語訳
そこで富弼に蕭英らの接待役を命じた。一行が国境に入った。天子は中使を遣わして労をねぎらった。蕭英は足の病を口実にして拝礼しなかった。富弼は言った。「私はかつて北に使いしたことがある。病んで車の中に臥していたが、命を聞けばすぐ起きて拝した。いま中使が来ているのに、公が起きないのは、何を見てのことか」。蕭英ははっとして起き上がり、拝礼した。富弼は胸襟を開いて語り合い、夷狄として扱わなかった。蕭英らがやがて去るとき、その側近がひそかに、自分たちの主が望んでいることを富弼に告げた。そのうえで言った。「従えるものなら従いなさい。従えないものなら、別の一件をもって塞ぎなさい」。
解説
二手が順に打たれています。一手目は礼の要求でした。しかも自分の経験を先に出しています。私も病んで車に臥していたが、命を聞けばすぐ起きて拝した。同じ立場に立ったうえで問うたので、相手は逃げられません。蕭英ははっとして起き上がり、拝礼した。二手目は正反対です。胸襟を開いて語り合い、夷狄として扱わなかった。礼は譲らず、人としては対等に扱う。この二つが揃った結果が、別れ際に起きました。その側近がひそかに、自分たちの主が望んでいることを告げた。
この章句が説くこと
英足疾に托して拝せず今中使至るに而して公起たざるは何を見てぞや公懐を開きて与に語り夷狄を以て之を待たず左右密かに其の主の欲する所の者を以て公に告ぐ対等礼
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