宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
自用兵以來吏民上書者甚衆初不省用公言知制誥本中書屬官可選一人置局中書考其所言可用用之宰相偷安欲以天下是非盡付他人又引國初故事請使宰相兼領樞密院仁宗曰軍國之務當盡歸中書樞密非古官然未欲遽廢即詔中書同議樞密院事宰相辭曰恐樞密院謂臣奪權公曰此宰相避事耳非畏奪權也
新字:自用兵以来吏民上書者甚衆初不省用公言知制誥本中書属官可選一人置局中書考其所言可用用之宰相偸安欲以天下是非尽付他人又引国初故事請使宰相兼領枢密院仁宗曰軍国之務当尽帰中書枢密非古官然未欲遽廃即詔中書同議枢密院事宰相辞曰恐枢密院謂臣奪権公曰此宰相避事耳非畏奪権也
書き下し
兵を用いてより以來、吏民の書を上る者甚だ衆し。初め省みられず。公の言を用い、知制誥は本と中書の屬官なれば、一人を選び局を中書に置き、其の言う所を考え、用う可きは之を用う。宰相は偷安して、天下の是非を以て盡く他人に付せんと欲す。又た國初の故事を引きて、宰相をして樞密院を兼ね領せしめんことを請う。仁宗曰く、軍國の務は當に盡く中書に歸すべし。樞密は古の官に非ず。然れども遽かに廢せんとは欲せずと。即ち中書に詔して樞密院の事を同議せしむ。宰相辭して曰く、恐らくは樞密院、臣を權を奪うと謂わんと。公曰く、此れ宰相の事を避くるのみ。權を奪うを畏るるに非ざるなりと。
現代語訳
兵を用いるようになって以来、役人や民で意見書を上る者がはなはだ多かった。はじめは顧みられなかった。富弼の言によって、知制誥はもと中書の属官であるから、一人を選んで局を中書に置き、その言うところを検討し、用いるべきものは用いることになった。宰相は安逸をむさぼり、天下の是非をすべて他人に押しつけようとした。富弼はまた建国当初の先例を引いて、宰相に枢密院を兼ね領させるよう願い出た。仁宗は言った。「軍事と国政の務めは、すべて中書に帰すべきである。枢密は古からの官ではない。しかし急に廃したくはない」。そこで詔して、中書に枢密院の事を同じく議させた。宰相は辞退して言った。「枢密院が、臣を権を奪う者だと言うのを恐れます」。富弼は言った。「これは宰相が仕事を避けているだけです。権を奪うことを恐れているのではありません」。
解説
この章句が説くこと
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『政談』出替り奉公人の締りの事取り迯け引負等は武家ならはその主人の方にて斬罪にすへし、町方ならは奉行所へ渡し斬罪にすへし、取り迯引負をかへさすることあるへからす、仔細は取迯引負はそのものゝ悪事にて、その家本親類の知りたることにあらす、既にその人を殺す上は主人の損たるへし、其奉公人わづらふことあらは主人の方にて養生いたしとらすへし、死たらは主人の方より寺へつかはし葬送すへし、両やうともに其家本親類のねがひあらは勝手次第たるへし、出替り奉公人なれとも、その生死を主人のこゝろ儘にする上は病気并に死後をかまうましき道理無きなり、惣して地頭御代官は年貢をとる計りの役にあらず、その地を治むる職なれば其地の民は手前の世話にすべきことなり、欠落は叛罪なり、取迯引負は賊罪なり、斬罪と云ふことは律とは相違すれども、律は郡県の治めなり、当時は封建の代にて武家の治なれは、先規の如く斬罪尤のことなり、
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『呻吟語』内篇・應務・福始禍端は皆な危道首任に非ず、獨任に非ざれば、禍福の先と為る可からず。福始禍端は、皆な危道なり。
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『政談』御徒士衆與力を頭の心儘に入るゝ事並に御旗本諸役人に召出さるゝ事然るに今の世の利口なる人の料見には左様の道理なりとて上に立ちたる人を皆下へ逐ひ下して、皆下より立身させ下上を転倒することは成らぬことなり、成りても騷かしきことなり、唯た今まて上に立ちたる人をは其の儘に仕置きて、下には料見を云はせ皆夫を取り用ひたれは、聖人の賢才を挙けよと仰せられたると同し道理になると料見する人あり、是れ聖賢の教をもどす借智にて、畢竟何の用にも立たぬことなり、下に料見を云せて夫を取用ひたるばかりにては、其の取り用ゆる人矢張下の情を知らぬ人なる故、下の賢才の料見も取り用ひ様にて大に違ひ有ることなり、其の上賢才も下に置きて云はせたる分にては得云はぬものなり、其の上同じき賢才にても下に置きたるときの料見は、未た身を打はめぬときの料見なる故、上へ挙けたるときは違ふことなり、上へ挙けて其の役に打箝めて見たるときは塲所ちかく故、其の料見も下に居たるときとは各別に働くことなり、故に古の聖賢も賢才を挙くるとは仰せられたれども、左様なるこしやくなることは終に宣はさるなり、
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