宋名臣言行録 / 前集巻八・王堯臣
元昊反時邉兵新敗於好水任福等戰死韓公坐主帥失律范文正亦坐移書元昊皆奪招討副使公因言此兩人天下之選其忠義智勇名動夷狄不宜以小故置之且任福由違節度以致敗尢不可深責主將由是迕宰相意明年賊入涇原戰定川殺大將葛懷敏乃公指言爲備處由是始以公言爲可信因復遣公安撫涇原路公曰陛下復用韓范幸甚然將不中御兵法也願以便宜從事上以爲然
新字:元昊反時邉兵新敗於好水任福等戦死韓公坐主帥失律范文正亦坐移書元昊皆奪招討副使公因言此両人天下之選其忠義智勇名動夷狄不宜以小故置之且任福由違節度以致敗尢不可深責主将由是迕宰相意明年賊入涇原戦定川殺大将葛懐敏乃公指言為備処由是始以公言為可信因復遣公安撫涇原路公曰陛下復用韓范幸甚然将不中御兵法也願以便宜従事上以為然
書き下し
元昊反す。時に邉兵、新たに好水に敗る。任福等戰死す。韓公、主帥の律を失うに坐す。范文正も亦た書を元昊に移すに坐す。皆な招討副使を奪わる。公因りて言う、此の兩人は天下の選なり。其の忠義・智勇の名、夷狄を動かす。宜しく小故を以て之を置くべからず。且つ任福は節度に違うに由りて以て敗を致す。尢も主將を深く責む可からずと。是に由りて宰相の意に迕う。明年、賊、涇原に入り、定川に戰い、大將葛懷敏を殺す。乃ち公の指し言いて備えを爲す處なり。是に由りて始めて公の言を以て信ず可しと爲す。因りて復た公を遣わして涇原路を安撫せしむ。公曰く、陛下、復た韓・范を用う。幸甚なり。然れども將、中御せざるは兵法なり。願わくは便宜を以て事に從わしめよと。上、以て然りと爲す。
現代語訳
趙元昊が叛いた。当時、辺境の兵は好水川で敗れたばかりであった。任福らが戦死した。韓琦は主帥として規律を失ったことで罪に問われた。范仲淹もまた元昊に書状を送ったことで罪に問われた。どちらも招討副使を奪われた。公はそこで言った。「この二人は天下から選ばれた人です。その忠義と智勇の名は、異民族をも動かします。小さな理由でこれを措いておくべきではありません。そのうえ任福は指揮に背いたことで敗れたのです。とりわけ主将を深く責めるべきではありません」。これによって宰相の意に逆らった。翌年、賊が涇原に入り、定川で戦って大将の葛懐敏を殺した。それはまさに公が指摘して備えるべきだと言っていた場所であった。これによってはじめて、公の言葉は信じてよいとされた。そこであらためて公を遣わして涇原路を安撫させた。公は言った。「陛下がふたたび韓琦と范仲淹を用いられるのは、たいそう幸いです。しかし将を中央から制さないのが兵法です。どうか現地の判断で事に当たらせてください」。帝はそのとおりだとした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『政談』出替り奉公人の締りの事取り迯け引負等は武家ならはその主人の方にて斬罪にすへし、町方ならは奉行所へ渡し斬罪にすへし、取り迯引負をかへさすることあるへからす、仔細は取迯引負はそのものゝ悪事にて、その家本親類の知りたることにあらす、既にその人を殺す上は主人の損たるへし、其奉公人わづらふことあらは主人の方にて養生いたしとらすへし、死たらは主人の方より寺へつかはし葬送すへし、両やうともに其家本親類のねがひあらは勝手次第たるへし、出替り奉公人なれとも、その生死を主人のこゝろ儘にする上は病気并に死後をかまうましき道理無きなり、惣して地頭御代官は年貢をとる計りの役にあらず、その地を治むる職なれば其地の民は手前の世話にすべきことなり、欠落は叛罪なり、取迯引負は賊罪なり、斬罪と云ふことは律とは相違すれども、律は郡県の治めなり、当時は封建の代にて武家の治なれは、先規の如く斬罪尤のことなり、
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『政談』御徒士衆與力を頭の心儘に入るゝ事並に御旗本諸役人に召出さるゝ事然るに今の世の利口なる人の料見には左様の道理なりとて上に立ちたる人を皆下へ逐ひ下して、皆下より立身させ下上を転倒することは成らぬことなり、成りても騷かしきことなり、唯た今まて上に立ちたる人をは其の儘に仕置きて、下には料見を云はせ皆夫を取り用ひたれは、聖人の賢才を挙けよと仰せられたると同し道理になると料見する人あり、是れ聖賢の教をもどす借智にて、畢竟何の用にも立たぬことなり、下に料見を云せて夫を取用ひたるばかりにては、其の取り用ゆる人矢張下の情を知らぬ人なる故、下の賢才の料見も取り用ひ様にて大に違ひ有ることなり、其の上賢才も下に置きて云はせたる分にては得云はぬものなり、其の上同じき賢才にても下に置きたるときの料見は、未た身を打はめぬときの料見なる故、上へ挙けたるときは違ふことなり、上へ挙けて其の役に打箝めて見たるときは塲所ちかく故、其の料見も下に居たるときとは各別に働くことなり、故に古の聖賢も賢才を挙くるとは仰せられたれども、左様なるこしやくなることは終に宣はさるなり、
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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『春秋左氏伝』僖公三十三年 一眚を以て大徳を掩わず夏、四月、辛巳、秦の師を殽に敗り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を獲て以って歸る。遂に墨して以って文公を葬る。晉是に於いて始めて墨す。文嬴三帥を請ひて曰く、「彼實に吾が二君を構ふ。寡君若し得て之を食らふとも、厭かじ。君何ぞ辱くも討たん。歸りて秦に戮に就かしめ、以って寡君の志を逞(たくま)しうせしめば、若何」と。公之を許す。先軫朝して、秦の囚を問ふ。公曰く、「夫人之を請ふ、吾之を舍せり」と。先軫怒りて曰く、「武夫力めて諸を原に拘へ、婦人暫くにして諸を國に免ず。軍實を墮(こぼ)ちて寇讎を長ず。亡ぶること日無からん」と。顧みずして唾す。公陽處父をして之を追はしむ。諸を河に及べば、則ち舟中に在り。左驂を釋き、公命を以って孟明に贈る。孟明稽首して曰く、「君の惠、纍臣を以って鼓に釁(ちぬ)らず、歸りて秦に戮に就かしむ。寡君の以って戮と為さば、死すとも且つ朽ちず。若し君の惠に從ひて之を免さば、三年にして將に君の賜を拜せんとす」と。秦伯素服して郊次し、師に鄉(むか)ひて哭して曰く、「孤蹇叔に違ひ、以って二三子を辱しむ、孤の罪なり。孟明を替へざるは、孤の過ちなり。大夫何の罪かあらん。且つ吾一眚(いっせい)を以って大德を掩はず」と。狄齊を侵す、晉の喪に因るなり。公邾を伐ち、訾婁(しろう)を取り、以って升陘の役に報ゆ。邾人備へを設けず。秋、襄仲復た邾を伐つ。狄晉を伐ち、箕に及ぶ。

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