宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
夏守彬為陜西都總管又以宦者王守忠為都鈐轄公言用守彬已為天下笑而守忠鈐轄乃與唐中官監軍無異遂詔罷守忠
新字:夏守彬為陜西都総管又以宦者王守忠為都鈐轄公言用守彬已為天下笑而守忠鈐轄乃与唐中官監軍無異遂詔罷守忠
書き下し
夏守彬、陝西の都總管と爲る。又た宦者王守忠を以て都鈐轄と爲す。公言う、守彬を用うるは已に天下の笑いと爲る。而して守忠の鈐轄は、乃ち唐の中官の監軍と異なる無しと。遂に詔して守忠を罷む。
現代語訳
夏守彬が陝西の都総管となった。さらに宦官の王守忠を都鈐轄とした。富弼は言った。「守彬を用いただけで、すでに天下の笑いものです。そのうえ守忠を鈐轄とするのは、唐の宦官が監軍となったのと変わりがありません」。ついに詔して守忠を罷めた。
解説
四十九字の短い諫めですが、効かせ方が明快です。まず一つ目の人事に触れておいて、二つ目で歴史の名前を出しました。守忠を鈐轄とするのは、唐の宦官が監軍となったのと変わりがありません。唐が宦官の監軍によってどうなったかは、誰もが知っています。個別の人物の資質を論じずに、制度の形が同じだと言えば、その先は説明が要らない。ついに詔して守忠を罷めた。論じる語数を減らすほど、動くのは速くなります。
この章句が説くこと
夏守彬陝西の都総管と為る又た宦者王守忠を以て都鈐轄と為す守彬を用うるは已に天下の笑いと為る守忠の鈐轄は乃ち唐の中官の監軍と異なる無し人事先例
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