宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
富文曾皆舉不與之論時荆公再入相曰將欲取之必姑與之也以筆畫其圖命天章閣待制韓縝奉使舉與之盖東西棄地五百里云祖宗故地荆公輕以畀鄰國又建以與為取之論至後世姦臣以伐燕為神宗遺意卒致天下之亂荆公之罪可勝言哉
新字:富文曽皆舉不与之論時荆公再入相曰将欲取之必姑与之也以筆画其図命天章閣待制韓縝奉使舉与之盖東西棄地五百里云祖宗故地荆公軽以畀鄰国又建以与為取之論至後世姦臣以伐燕為神宗遺意卒致天下之乱荆公之罪可勝言哉
書き下し
富・文・曾皆與えざるの論を舉ぐ。時に荊公再び相に入りて曰く、將に之を取らんと欲せば、必ず姑く之を與うと。筆を以て其の圖を畫き、天章閣待制韓縝に命じて使いを奉じて舉げて之を與えしむ。蓋し東西に地を棄つること五百里と云う。祖宗の故地、荊公輕がるしく以て鄰國に畀う。又た與うるを以て取ると爲すの論を建つ。後世に至り、姦臣燕を伐つを以て神宗の遺意と爲し、卒に天下の亂を致す。荊公の罪、勝げて言う可けんや。
現代語訳
富弼・文彦博・曾公亮は、みな与えないという論を挙げた。当時、王安石が再び宰相に入って言った。「まさにこれを取ろうとするなら、必ずしばらくこれを与えるのだ」。筆でその地図を引き、天章閣待制の韓縝に命じて使いとして赴かせ、そっくり与えさせた。東西で棄てた地は五百里に及ぶという。祖宗伝来の地を、王安石は軽々しく隣国に与えたのである。そのうえ「与えることが取ることになる」という論を立てた。後世に至って、奸臣が燕を討つことを神宗のご遺志であるとし、ついに天下の乱を招いた。王安石の罪は、言い尽くせるものであろうか。
解説
四人が答申し、三人と韓琦が与えないと言い、決めたのは別の理屈でした。まさにこれを取ろうとするなら、必ずしばらくこれを与えるのだ。老子の言葉を借りた一句で、五百里が動きます。編者はここで筆を抑えていません。祖宗伝来の地を、王安石は軽々しく隣国に与えた。そして、この一件が生んだ理屈のほうを重く見ています。「与えることが取ることになる」という論を立てた。後世に至って、奸臣が燕を討つことを神宗のご遺志であるとし、ついに天下の乱を招いた。やがて靖康の破局に至る道の、最初の一歩として書かれた条です。
この章句が説くこと
富文曽皆与えざるの論を舉ぐ将に之を取らんと欲せば必ず姑く之を与う蓋し東西に地を棄つること五百里と云う後世に至り姦臣燕を伐つを以て神宗の遺意と為し卒に天下の乱を致す譲歩外交
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