宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
公知揚州王荆公初及第為簽判毎讀書至逹旦略假寐日已髙急上府多不及盥潄魏公見荆公少年疑夜飲放逸一日從容謂荆公曰君少年毋廢書不可自棄荆公不答退而言曰韓公非知我者魏公後知其賢欲收之門下荆公終不屈故荆公熈寧日錄中短魏公為多毎曰韓公但形相好耳作畫虎圖以詆之公薨荆公挽詩云幕府少年今白髮傷心無路送靈輀猶不㤀少年之語也
新字:公知揚州王荆公初及第為簽判毎読書至逹旦略仮寐日已高急上府多不及盥潄魏公見荆公少年疑夜飲放逸一日従容謂荆公曰君少年毋廃書不可自棄荆公不答退而言曰韓公非知我者魏公後知其賢欲収之門下荆公終不屈故荆公熈寧日録中短魏公為多毎曰韓公但形相好耳作画虎図以詆之公薨荆公挽詩云幕府少年今白髪傷心無路送霊輀猶不㤀少年之語也
書き下し
公揚州を知る。王荊公初め及第して簽判と爲る。毎に書を讀みて達旦に至り、略ミ仮寐すれば日已に髙し。急ぎ府に上り、多くは盥漱に及ばず。魏公、荊公の少年なるを見て、夜飲放逸なるかと疑う。一日從容として荊公に謂いて曰く、君少年なり。書を廢する毋かれ。自ら棄つ可からずと。荊公答えず。退きて言いて曰く、韓公は我を知る者に非ずと。魏公後に其の賢を知り、之を門下に收めんと欲す。荊公終に屈せず。故に荊公の熙寧日錄中、魏公を短ずること多しと爲す。毎に曰く、韓公は但だ形相好きのみと。畫虎の圖を作りて以て之を詆る。公薨ずるや、荊公の挽詩に云う、幕府の少年今白髮、傷心して靈輀を送るに路無しと。猶お少年の語を忘れざるなり。
現代語訳
韓琦が揚州の知事であったとき、王安石は及第したばかりで僉判であった。書を読んで明け方に至るたび、わずかにうたた寝をすると日はもう高くなっている。急いで役所に上がるので、多くは顔を洗い口をすすぐ暇もなかった。韓琦は王安石が若いので、夜に酒を飲んで放埒にしているのだろうと疑った。ある日、くつろいだ折に王安石に言った。「君は若い。書を捨ててはいけない。自分から自分を棄ててはならぬ」。王安石は答えなかった。退いてから言った。「韓公は私を知る人ではない」。韓琦は後にその賢さを知り、門下に収めようとした。王安石はついに屈しなかった。それゆえ王安石の『熙寧日録』の中には、韓琦をけなす言葉が多い。いつも「韓公はただ見た目が立派なだけだ」と言い、虎を描いた図を作ってそしった。韓琦が薨じたとき、王安石の挽詩に言う。「幕府の少年、今は白髪。傷心して霊柩を送る路もない」。やはり若い日の言葉を忘れていないのである。
解説
この章句が説くこと
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説苑・善說齊景公子貢に謂いて曰く、「子誰をか師とする。」曰く、「臣仲尼を師とす。」公曰く、「仲尼賢なるか。」對えて曰く、「賢なり。」公曰く、「其の賢たること何如。」對えて曰く、「知らざるなり。」公曰く、「子其の賢を知りて其の奚若たるを知らざるは、可ならんか。」對えて曰く、「今天高しと謂うに、少長愚智と無く皆高きを知る。高きこと幾何ぞや。皆知らずと曰う。是を以て仲尼の賢を知りて其の奚若たるを知らざるなり。」
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論語・子張篇子游曰く、吾が友張や、能くし難きことを為すなり。然れども未だ仁ならず。
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論語・憲問篇子曰く、『驥は其の力を称せず、その徳を称すなり。』
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史記 管晏列伝鮑叔既に管仲を進め、身を以て之に下る。子孫世々斉に禄せられ、封邑を有つこと十余世、常に名大夫為り。天下、管仲の賢を多とせずして、鮑叔の能く人を知るを多とす。
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論語・憲問篇子曰く、人の己を知らざるを患えず、其の能わざるを患う。
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論語・子張篇陳子禽、子貢に謂いて曰く、「子は恭を為すなり。仲尼豈に子より賢らんや。」子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざる可からざるなり。夫子の及ぶ可からざるや、猶お天の階して升る可からざるがごときなり。夫子の邦家を得たらば、所謂『之を立つれば斯に立ち、之を道けば斯に行き、之を綏んずれば斯に来たり、之を動かせば斯に和す。其の生くるや栄え、其の死するや哀しむ』。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。」