宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
後數日獨見英宗帝曰太后待我無恩公曰自古聖帝明王不為少矣然獨稱舜為大孝豈其餘皆不孝邪父母慈愛而子孝此常事不足道惟父母不慈而子不失孝乃可稱但恐陛下事之未至爾父母豈有不慈者帝大悟自是不復言太后短矣熈寧中歐公退居頴上間言及此曰古所謂社稷臣韓公近之
新字:後数日独見英宗帝曰太后待我無恩公曰自古聖帝明王不為少矣然独称舜為大孝豈其余皆不孝邪父母慈愛而子孝此常事不足道惟父母不慈而子不失孝乃可称但恐陛下事之未至爾父母豈有不慈者帝大悟自是不復言太后短矣熈寧中欧公退居頴上間言及此曰古所謂社稷臣韓公近之
書き下し
後數日、獨り英宗に見ゆ。帝曰く、太后我を待つに恩無しと。公曰く、古より聖帝明王少なしと爲さず。然れども獨り舜を稱して大孝と爲す。豈に其の餘は皆不孝ならんや。父母慈愛にして子孝なるは、此れ常事にして道うに足らず。惟だ父母慈ならずして子孝を失わざる、乃ち稱す可し。但だ恐らくは陛下の之に事うること未だ至らざるのみ。父母豈に慈ならざる者有らんやと。帝大いに悟り、是れより復た太后の短を言わず。熙寧中、歐公頴上に退居し、間に言此に及びて曰く、古の所謂社稷の臣、韓公之に近しと。
現代語訳
数日後、韓琦はひとりで英宗に会った。帝は言った。「太后は私に恩をかけてくれない」。韓琦は言った。「古来、聖帝明王は少なくありません。しかし舜だけを大孝と称します。ほかの者はみな不孝だったのでしょうか。父母が慈愛深くて子が孝なのは、当たり前のことで、言うに足りません。ただ父母が慈しまなくとも子が孝を失わない、それでこそ称えるに足るのです。ただ恐れますのは、陛下のお仕えがまだ行き届いていないことだけです。父母に、どうして慈しまない者がありましょうか」。帝は大いに悟り、これ以後、二度と太后の短所を口にしなかった。熙寧年間、欧陽脩が頴上に退いていたとき、話がこの件に及んで言った。「古にいう社稷の臣とは、韓公がそれに近い」。
解説
太后の側を和らげた数日後に、こんどは天子の側に回っています。**太后は私に恩をかけてくれない。**この訴えを、韓琦は否定も同情もしませんでした。舜を持ち出します。**父母が慈愛深くて子が孝なのは当たり前で、言うに足りない。父母が慈しまなくとも子が孝を失わない、それでこそ称えるに足る。**恩がないという前提を認めたうえで、そこが値打ちの出る場所だと置き換えた。そして責任を相手に返します。**ただ恐れますのは、陛下のお仕えがまだ行き届いていないことだけです。**両方に別々の言葉を用意した人を、欧陽脩は社稷の臣と呼びました。
この章句が説くこと
太后我を待つに恩無し独り舜を称して大孝と為す豈に其の余は皆不孝ならんや父母慈ならずして子孝を失わざる乃ち称す可し古の所謂社稷の臣韓公之に近し孝忍耐
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