宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
徙鎮定定州久用戎將治兵無法度至於驕不可使公至即用兵律裁之察其横軍中尤不可教者捽首斬軍門外士死攻圍賻賞其家恤其孤兒使繼衣廪恩威既信則倣古兵法作方貟銳三陣指授偏將日月教習之由是定兵精勁齊一號為可用冠河朔嵗大歉為法賑之活飢人七百萬鄰城旁路刺取其法視中山隱然為雄鎮聲動虜中
新字:徙鎮定定州久用戎将治兵無法度至於驕不可使公至即用兵律裁之察其横軍中尤不可教者捽首斬軍門外士死攻囲賻賞其家恤其孤児使継衣廪恩威既信則倣古兵法作方貟鋭三陣指授偏将日月教習之由是定兵精勁斉一号為可用冠河朔歳大歉為法賑之活飢人七百万鄰城旁路刺取其法視中山隠然為雄鎮声動虜中
書き下し
鎮定に徙る。定州は久しく戎將を用い、兵を治むるに法度無く、驕りて使う可からざるに至る。公至りて即ち兵律を用いて之を裁す。其の橫にして軍中尤も教う可からざる者を察し、首を捽きて軍門の外に斬る。士の攻圍に死する者は、其の家に賻賞し、其の孤兒を恤み、衣廩を繼がしむ。恩威既に信ぜられ、則ち古の兵法に倣いて方・員・銳の三陣を作り、偏將に指授して日月に之を教習せしむ。是に由りて定の兵は精勁齊一、號して用う可しと爲し、河朔に冠たり。歳大いに歉なるに、法を爲して之を賑し、飢人七百萬を活かす。鄰城旁路、其の法を刺取す。中山を視るに隱然として雄鎮爲り、聲は虜中を動かす。
現代語訳
鎮定に移った。定州は長らく蕃将を用いてきて、兵を治めるのに決まりがなく、驕って使いものにならないところまで来ていた。韓琦は着くとすぐ軍法を当てて裁いた。横暴で軍中でも最も手のつけられない者を見きわめ、首をつかんで軍門の外で斬った。攻め囲みで死んだ兵には、その家に香典と賞を出し、遺された子を憐れんで、衣と扶持を継がせた。恩と威のどちらも信じられるようになってから、古の兵法にならって方陣・円陣・鋭陣の三つの陣を作り、副将に授けて日ごと月ごとに教え習わせた。これによって定州の兵は精強で揃い、使えるという評判になり、河朔一と言われた。年が大凶作になると、決まりを立てて救い、飢えた人七百万を生かした。隣の城や近くの路がその法をそのまま写し取った。中山(定州)を見れば、どっしりとした要鎮であり、その評判は敵の中まで揺るがした。
解説
この章句が説くこと
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