宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
以益利路人飢為體量安撫使公至則蠲减稅以募人入粟招募壯者等第刺以為廂禁軍一人充軍數口之家得以全活檄劒門關民流移而東者勿禁簡州艱食為甚明道中以災傷嘗勸納粟後糶錢十六餘萬歸於常平公曰是錢乃賑濟之餘非官緡也發庫盡以給四等以下戸逐貪殘不職吏罷冗役七百六十人為饘粥活飢人一百九十餘萬蜀人曰使者之來更生我也
新字:以益利路人飢為体量安撫使公至則蠲减税以募人入粟招募壮者等第刺以為廂禁軍一人充軍数口之家得以全活檄劒門関民流移而東者勿禁簡州艱食為甚明道中以災傷嘗勧納粟後糶銭十六余万帰於常平公曰是銭乃賑済之余非官緡也発庫尽以給四等以下戸逐貪残不職吏罷冗役七百六十人為饘粥活飢人一百九十余万蜀人曰使者之来更生我也
書き下し
益利路の人飢うるを以て、體量安撫使と爲る。公至れば則ち税を蠲减して以て人を募りて粟を入れしむ。壯なる者を招募し、等第して刺して以て廂禁軍と爲す。一人軍に充つれば、數口の家、以て全活するを得たり。劒門關に檄して、民の流移して東する者を禁ずる勿からしむ。簡州、食に艱しむこと甚だしと爲す。明道中、災傷を以て嘗て粟を納れしめ、後に糶りし錢十六餘萬、常平に歸す。公曰く、是の錢は乃ち賑濟の餘なり、官緡に非ざるなりと。庫を發きて盡く以て四等以下の戸に給す。貪殘不職の吏を逐い、冗役七百六十人を罷め、饘粥を爲りて飢人一百九十餘萬を活かす。蜀人曰く、使者の來るは、我を更生せしむるなりと。
現代語訳
益州・利州路の人が飢えたので、体量安撫使となった。韓琦は着くとすぐ税を免じ減らして、人を募って粟を納めさせた。壮健な者を募集し、等級をつけて印を入れ、廂軍・禁軍とした。一人が軍に入れば、数人の家族が生き延びられた。剣門関に令を出して、民が流れて東へ移るのを禁じないようにさせた。簡州はとりわけ食に苦しんでいた。明道年間、災害のためにかつて粟を納めさせ、後にそれを売った銭十六万余りが常平倉のものになっていた。韓琦は言った。「この銭は賑済の余りであって、官の銭ではない」。倉庫を開いて、すべて四等以下の戸に配った。貪欲で職を果たさない役人を追い、余分な役七百六十人を廃し、粥を作って飢えた人百九十余万を生かした。蜀の人は言った。「使者が来たのは、我々を生き返らせることであった」。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦公相と爲りしより、即ち當時の諸公と力を同じくし德を一にし、謀議制作し、天下の士を銓補す。汲引する所、多くは正直にして名有り、或いは忠厚にして風俗を鎮む可き者、公議を以て之を用う。士、何人の門下より出づるかを知る莫し。嘉祐四年、祫享の赦を下すに、事の民に便なる者多し。諸路に命じて學行尤も異なる者を舉げしめ、篤く遣わして京師に詣らしめ、太學に館し、舍人院に試み、使を差して官を授く。柴氏の後を立てて崇義公と爲すは、春秋存亡繼絶の義に法る。才臣を擇びて四方に詣らしめ、民力を寛恤す。戸絶の田租を籍して廣惠倉と爲し、以て賑䘏を廣む。唐・鄧の廢田を耕すを募り、農作を勸課す。守令の治むること最なる者は其の任を久しくし、以て吏課を率う。令敕を裁定して以て疑讞を省き、茶禁を弛めて以て東南の民に便にす。議者以謂えらく、三代の仁義に近しと。多くは公の論議施行する所なり。
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦鎮定に徙る。定州は久しく戎將を用い、兵を治むるに法度無く、驕りて使う可からざるに至る。公至りて即ち兵律を用いて之を裁す。其の橫にして軍中尤も教う可からざる者を察し、首を捽きて軍門の外に斬る。士の攻圍に死する者は、其の家に賻賞し、其の孤兒を恤み、衣廩を繼がしむ。恩威既に信ぜられ、則ち古の兵法に倣いて方・員・銳の三陣を作り、偏將に指授して日月に之を教習せしむ。是に由りて定の兵は精勁齊一、號して用う可しと爲し、河朔に冠たり。歳大いに歉なるに、法を爲して之を賑し、飢人七百萬を活かす。鄰城旁路、其の法を刺取す。中山を視るに隱然として雄鎮爲り、聲は虜中を動かす。
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『宋名臣言行録』前集巻七・范仲淹皇祐二年、吴中大いに饑う。殍殣、路に枕す。時に公、浙西を領す。粟を發し及び民を募りて存餉す。術を為すこと甚だ備わる。吳人、競渡を喜び、佛事を為すを好む。公乃ち民の競渡を縱にす。太守、日々に出でて湖上に宴す。春より夏に至るまで、居民、巷を空しくして出遊す。又た諸佛寺の主首を召して之に諭して曰く、饑歳は工價至って賤し。以て大いに土木の役を興す可しと。是に於て諸寺の工作鼎興す。又た敖倉・吏舍を新たにす。日に千夫を役す。監司、杭州の荒政を恤れまず、嬉遊節あらず、及び公私の興造、民力を傷耗するを奏劾す。公乃ち自ら宴遊及び興造する所以を條叙す。皆な有餘の財を發して以て貧者に惠まんと欲す。貿易・飲食・工技・服力の人、公私に食を仰ぐ者、日に慮んぞ數萬人ならざらんや。荒政の施、此より大なるは莫し。是の歳、兩浙、惟だ杭州のみ晏然として、民流徙せず。皆な公の惠なり。
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『宋名臣言行録』前集巻三・張詠公嘗て蜀地素より狹く、游手の者衆きを以てす。事寧きの後、生齒日々に繁し。稍や水旱に遇わば則ち民必ず食に艱まん。時に米、㪷に錢三十六に直る。乃ち諸邑の田税を按じ、其の價の如くし、歳に米六萬斛を折る。春に至りて城中の細民を籍し、口を計りて劵を給し、元の估を輸して之を糴わしむ。奏して永制と為す。今に逮ぶこと七十餘年。時に災饉有りて米甚だ貴しと雖も、益の民に餒色無き者は、公の賜なり。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏越州を通判す。歳饑う。常平の以て賑給するに足らざるを度り、而して田に居り野に處る人は皆城郭に至る能わず。至る者は羣聚して疾癘の虞れ有り。期に前んじて屬縣に喩し、富人を召して其の粟の數を自ら實せしむ。摠て十五萬石を得たり。常平の價を視て稍ミ增して以て民に予う。民便に從いて粟を受くるを得、田里を出でずして食に餘り有り。粟の價爲に平らかとなる。
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦公秦に在り、州城を增廣して以て保固し、東西の市を招集し、屬戸をして諸羌の馬を益ミ市わしむ。生羌の邉を鈔する者を討殺し、兵を厲まして以て賊を待つ。公の秦を去るに訖るまで、賊敢えて塞を窺わず。