宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
天聖五年仁宗初臨軒試進士公年二十名在第二時唱名第一甲方終太史奏日下五色雲見左右從官皆賀於殿上
新字:天聖五年仁宗初臨軒試進士公年二十名在第二時唱名第一甲方終太史奏日下五色雲見左右従官皆賀於殿上
書き下し
天聖五年、仁宗初めて軒に臨みて進士を試む。公年二十、名は第二に在り。時に唱名して第一甲方に終わり、太史奏す、日下に五色の雲見ると。左右の從官皆殿上に賀す。
現代語訳
天聖五年(一〇二七)、仁宗が初めて自ら出御して進士を試験した。韓琦は二十歳、成績は第二位であった。合格者の名を読み上げて第一甲がちょうど終わったとき、太史(天文を司る官)が奏上した。「日の下に五色の雲が現れました」。左右の侍臣たちはみな殿上で祝賀した。
解説
韓琦(一〇〇八〜一〇七五)。後集の巻頭に置かれた人で、仁宗・英宗・神宗の三代に仕え、宰相を務めました。前集巻十で石介が詩に**大事を託してよい**と書いた、あの韓琦です(六七五)。この条は登場の場面。**二十歳で第二位**、名前の読み上げが終わった瞬間に五色の雲が出たという記録から始まります。後に続く条の大半が辺境と飢饉と皇位継承の話なので、この明るい書き出しは対照として置かれています。
この章句が説くこと
仁宗初めて軒に臨みて進士を試む公年二十名は第二に在り太史奏す日下に五色の雲見ると登用科挙出発
関連する章句
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