宋名臣言行録 / 前集巻十・蘇洵
君少不喜學年巳壯猶不知書始大發憤謝其素所徃來少年閉戸讀書為文詞嵗餘舉進士再不中退而嘆曰此不足為吾學也悉取所為文數百篇焚之益閉户讀書絶筆不為文辭者五六年涵蓄充溢抑而不發乆之慨然曰可矣由是下筆頃刻數千言其縱横上下出入馳驟必造於深㣲而後止盖其禀也厚故發之遲志也慤故得之精自來京師一時學者皆尊其賢學其文以為師法以其父子俱知名故號老蘇以别之
新字:君少不喜学年巳壮猶不知書始大発憤謝其素所往来少年閉戸読書為文詞歳余舉進士再不中退而嘆曰此不足為吾学也悉取所為文数百篇焚之益閉戸読書絶筆不為文辞者五六年涵蓄充溢抑而不発乆之慨然曰可矣由是下筆頃刻数千言其縦横上下出入馳驟必造於深㣲而後止盖其禀也厚故発之遅志也慤故得之精自来京師一時学者皆尊其賢学其文以為師法以其父子倶知名故号老蘇以別之
書き下し
君、少くして學を喜ばず。年巳に壯なるも、猶お書を知らず。始めて大いに發憤し、其の素より徃來する所の少年に謝し、戸を閉じて書を讀み、文詞を爲る。嵗餘にして進士に舉げらるるも再び中らず。退きて嘆じて曰く、此れ吾が學と爲すに足らずと。悉く爲る所の文數百篇を取りて之を焚く。益ミ戸を閉じて書を讀み、筆を絶ちて文辭を爲らざる者五六年。涵蓄充溢するも、抑えて發せず。乆しくして慨然として曰く、可なりと。是に由りて筆を下せば頃刻に數千言、其の縱横上下、出入馳驟して、必ず深㣲に造りて而る後に止む。蓋し其の禀や厚し、故に之を發すること遲し。志や慤なり、故に之を得ること精なり。京師に來たりてより、一時の學者皆其の賢を尊び、其の文を學びて以て師法と爲す。其の父子俱に名を知らるるを以て、故に老蘇と號して以て之を別つ。
現代語訳
蘇洵は若いころ学問を好まなかった。もう壮年になっても、まだ書物を知らなかった。そこで初めて奮い立ち、日ごろ付き合っていた若者たちに別れを告げ、戸を閉じて書を読み、文章を書いた。一年あまりで進士に挙げられたが、二度とも及第しなかった。退いて嘆じた。「これは私の学問と呼ぶに足りない」。そして書いた文章数百篇をすべて取り出して焼いた。いっそう戸を閉じて書を読み、筆を絶って文章を書かないこと五、六年。蓄えが満ちあふれても、抑えて出さなかった。久しくして、感じ入って言った。「もうよい」。それから筆を下ろせば、たちまち数千言。縦横に上下し、出入りして駆けめぐり、必ず深く微かなところまで行き着いてから止まった。思うに、生まれつきが厚いので、発するのが遅かった。志が誠実なので、得たものが精かった。都に来てからは、当代の学者がみなその賢を尊び、その文章を学んで手本とした。父子ともに名が知られていたので、老蘇と号して区別した。
解説
この章句が説くこと
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