宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
公生四嵗而孤母韓國太夫人親教公讀書家貧至以荻畫地學書公敏悟過人所覧輙能成誦比成人將舉進士為一時偶儷之文已絶出倫軰翰林學士胥公時在漢陽見而奇之曰子必有名於世館之門下公從之京師兩試國子監一試禮部皆第一遂中甲科補西京留守推官始從尹師魯逰為古文議論當世事迭相師友與梅聖俞逰為歌詩相唱和遂以文章名冠天下留守王文康知其賢還朝薦之
新字:公生四歳而孤母韓国太夫人親教公読書家貧至以荻画地学書公敏悟過人所覧輙能成誦比成人将舉進士為一時偶儷之文已絶出倫軰翰林学士胥公時在漢陽見而奇之曰子必有名於世館之門下公従之京師両試国子監一試礼部皆第一遂中甲科補西京留守推官始従尹師魯遊為古文議論当世事迭相師友与梅聖俞遊為歌詩相唱和遂以文章名冠天下留守王文康知其賢還朝薦之
書き下し
公生まれて四歳にして孤なり。母韓國太夫人親しく公に教えて書を讀ましむ。家貧しく、荻を以て地に畫きて書を學ぶに至る。公敏悟人に過ぎ、覽る所輒ち能く誦を成す。成人するに比び、將に進士に舉げられんとし、一時の偶儷の文を爲す。已に絶えて倫輩に出づ。翰林學士胥公、時に漢陽に在り、見て之を奇として曰く、子は必ず世に名有らんと。之を門下に館せしむ。公之に從いて京師に至り、兩たび國子監に試み、一たび禮部に試む。皆第一なり。遂に甲科に中り、西京留守推官に補せらる。始めて尹師魯に從いて遊び、古文を爲し當世の事を議論し、迭いに相い師友たり。梅聖俞と遊びて歌詩を爲し、相い唱和す。遂に文章を以て名は天下に冠たり。留守王文康、其の賢を知り、朝に還りて之を薦む。
現代語訳
欧陽脩は生まれて四歳で父を失った。母の韓国太夫人が自ら教えて書を読ませた。家は貧しく、荻の茎で地面に字を書いて書を学ぶほどであった。欧陽脩は聡明さが人に勝り、目を通したものはすぐに暗誦できた。成人するころ、進士に応じようとして当世流行の対句の文を作ったが、すでに同輩を遠く抜いていた。翰林学士の胥公が当時漢陽におり、これを見て非凡だとして言った。「この子は必ず世に名を成すだろう」。門下に置いて世話をした。欧陽脩は胥公に従って都に上り、二度国子監で、一度礼部で試験を受け、いずれも首席であった。ついに甲科に及第し、西京留守推官に任じられた。はじめて尹洙と交わって古文を作り、当世の事を議論し、互いに師となり友となった。梅堯臣と交わって詩を作り、唱和し合った。ついに文章によって名は天下第一となった。留守の王曙はその賢さを知り、朝廷に戻ってこれを推薦した。
解説
この章句が説くこと
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論語・学而篇子曰く、「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」
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論語・泰伯篇子曰く、『学ぶこと及ばざるが如く、なおこれを失うことを恐る。』
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論語・為政篇子曰く、学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
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論語・為政篇子曰く、「吾回と言うこと終日、違(たが)わざること愚かなるが如し。退きて其の私を省みれば、亦以て発するに足る、回や愚かならず。」
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論語・憲問篇子曰く、『古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。』