宋名臣言行録 / 前集巻十・胡瑗
在湖學時福唐劉彛中徃從之學者數百人彛為髙弟熈寧二年召對上問曰胡瑗文章與王安石孰優彛曰胡瑗以道徳仁義教東南諸生時王安石方在場屋修進士業臣聞聖人之道有體有用有文君臣父子仁義禮樂歴世不可變者其體也詩書史傳子集埀法後世者文也舉而措之天下能潤澤其民歸於皇極者其用也國家累朝取士不以體用為本而尚其聲律浮華之詞是以風俗媮薄臣師瑗當寳元明道之間尤病其失遂明體用之學以授諸生夙夜勤瘁二十餘年專切學校始自蘇湖終于太學出其門者無慮一千餘人故今學者明夫聖人體用以為政教之本皆臣師之功也
新字:在湖学時福唐劉彛中往従之学者数百人彛為高弟熈寧二年召対上問曰胡瑗文章与王安石孰優彛曰胡瑗以道徳仁義教東南諸生時王安石方在場屋修進士業臣聞聖人之道有体有用有文君臣父子仁義礼楽歴世不可変者其体也詩書史伝子集埀法後世者文也舉而措之天下能潤沢其民帰於皇極者其用也国家累朝取士不以体用為本而尚其声律浮華之詞是以風俗媮薄臣師瑗当宝元明道之間尤病其失遂明体用之学以授諸生夙夜勤瘁二十余年専切学校始自蘇湖終于太学出其門者無慮一千余人故今学者明夫聖人体用以為政教之本皆臣師之功也
書き下し
湖學に在りし時、福唐の劉彝、中ごろ徃きて之に從う。學者數百人、彝は髙弟と爲る。熙寧二年、召對す。上問いて曰く、胡瑗の文章は王安石と孰れか優れると。彝曰く、胡瑗は道徳仁義を以て東南の諸生を教う。時に王安石は方に場屋に在りて進士の業を修む。臣聞く、聖人の道に體有り用有り文有り。君臣父子・仁義禮樂の、世を歴て變ず可からざる者は其の體なり。詩書史傳子集の、法を後世に埀るる者は文なり。舉げて之を天下に措き、能く其の民を潤澤して皇極に歸する者は其の用なり。國家累朝、士を取るに體用を以て本と爲さずして、其の聲律浮華の詞を尚ぶ。是を以て風俗媮薄なり。臣の師瑗、寳元・明道の間に當たり、尤も其の失を病み、遂に體用の學を明らかにして以て諸生に授く。夙夜勤瘁すること二十餘年、專ら學校に切にし、始め蘇湖より終わり太學に于る。其の門より出づる者、無慮一千餘人。故に今の學者、夫の聖人の體用を明らかにして以て政教の本と爲すは、皆臣の師の功なり。
現代語訳
胡瑗が湖州の学にいたとき、福唐の劉彝が途中から来て師事した。学ぶ者は数百人いたが、劉彝はその高弟である。熙寧二年(一〇六九)、召されて神宗に応対した。天子が尋ねた。「胡瑗の文章は王安石とどちらが優れているか」。劉彝は答えた。「胡瑗は道徳と仁義によって東南の学生たちを教えました。そのころ王安石は、まだ科挙の場にいて進士の勉強をしておりました。臣が聞きますに、聖人の道には体があり、用があり、文があります。君臣・父子、仁義・礼楽といった、代を経ても変わりようのないものが、その体です。詩・書・史伝・諸子・文集といった、法を後の世に垂れるものが、文です。それを取り上げて天下に置き、民をうるおして皇極に帰せしめるもの、それが用です。国家は代々、士を取るのに体と用を根本とせず、音律の整った華やかな文章のほうを尊んできました。だから風俗が薄くなったのです。臣の師である胡瑗は、宝元・明道のころ、その誤りをとりわけ憂え、ついに体用の学を明らかにして学生に授けました。朝から晩まで力を尽くすこと二十余年、もっぱら学校に打ち込み、初めは蘇州・湖州、終わりは太学でした。その門から出た者はおよそ千余人。ですから今の学ぶ者が、あの聖人の体と用を明らかにして政治と教化の根本とするのは、みな臣の師の功なのです」。
解説
この章句が説くこと
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『政談』學問の事偖御旗本の学問あるをば、其の向寄の儒者ともより若年寄御番頭へ申さすへし、尤も学問なき人の贔負にて有と云やうなることも有べけれとも、兎角芸の事は其の芸者の方より申し立つるを証拠にせざれば知るへきやうなきことなり、偖学問ある人を撰みて御役人に仰付らるゝやうにもあらば、学問ははやるべきことなり、されども学問なく上も知行高と、家筋にて御役人にはなることと人々覚え居ることなる故気のつまることはせね道理なり、古は学問なければ公辺の勤めもならぬやうに徳を立て置きたる故、自から武家も学問を仕たると見えたり、源頼義大江匡房と書翰往来のこと本朝文粋に之あり、頼義奥州退治の時上表せられたることなどあり、又義家丹波の椽の時新田開発の下し文を先年見たり、共に仲々かたき文章なり、当時は学問なくても御奉公の差支はなきこと故、気のつまることをせぬ筈のこと也、
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『文武訓』文訓下一不学なる人、或は、書をよんでも粗学なる人は、人の言行の善悪を評論し、又人の作れる詩文章のよしあしを評論すること、多くは理にあたらず。学問なく不智にして、人の是非を評することなかれ。おろかなる人は、事の善悪をしらず、只人のいふことを信じてまよひ、みだりに褒めそしること多し。是非を知らざる人のいふことを信じて迷ひ、みだりに褒めそしるべからず。凡不智にして人の是非をいふことは、理にあたらずひが事多し。又少し書をよんで、みづから是としてわが才智にほこり、人のよしあしを褒めそしることをこのむは、智なきが故なり。
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『学則』答屈景山書夫れ士の其の世に生まるる、此に非ざれば則ち出でて其の道を行ひ、功を策し名を立てて、以て其の父母を顕はす能はず。千秋の志無しと雖も、是れも亦た恕すべきのみ。二公の古文辞を倡ふるは、皆進士に第するの後に在り。而して二公の興るや、従游時師に過ぐ。時師の妒みを来たす所以なり。然れども二公は朝廷の功令に勝つ能はず、亦た人人の功名の心に勝つ能はず。故に人の之を非笑すること、猶ほ韓公の如し。而るに二公は人の非笑を顧みず、寧ろ世に知られず、此に藉りて禍を得るも、千歳の鍾期を竢つ者、亦た猶ほ韓公の如し。是れ其の心独り何ぞや。学問の道は諸を古に本づくればなり。夫れ志を立つること此くの如し。豈に模擬剽窃を是れ為さんや。此を以て之を観れば、妒口に非ずして何ぞや。
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『翁問答』下卷之本又一つのたとへあり、大将はくすしなり、敵は病なり、士卒は薬味なり、備の法は薬法なり覘釁の用間の武略は四診の医術なり、奇正のそなへ敵によつて転化するは攻補の薬方やまひによつて施すが如し、軍法をすこしも知らざる大将は医道を少しも知らぬものが療治するが如し、あやうき事なるべし、陣かずの功にて備のたてやう合戦のてだてをすこし見習ひたる大将は、薬方すこしならひ覚へ病功のいりたるやぶぐすしの如し、軍法の学問なき大将運命の勢ひつよく、よはき敵ばかりにあひて勝利を得国をとり威をふるふは、しあはせよきやぶぐすし見かけはなはだしくてなほり易き病人に取かゝり、手柄をして薬代過分にとりその名たかきが如し、
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『洗心洞箚記』卷上・第百七十七條或ひと問ふ、朱子は其の学徳才能、聖人と既に相近きか、と。吾不肖、何ぞ敢へて之を知るに足らん。然れども昔賢の朱子を私淑する人の説を以て之を判ぜん。黄陶菴曰く、「朱子の四書集註の中、未だ嘗て病無くんばあらず。之を要するに後学軽々しく議すべからず。今人李杜韓欧の諸集を読むに、其の中の詩文の佳き者、固より挙ぐるに勝へず。然り而して字句の瑕と、文義の理を累はす者とも、亦未だ嘗て之無くんばあらず。終に此を以て其の大美を掩はず。況や朱子は千聖の為に微を発し、盲者をして視るを得しめ、聾者をして聴くを得しむ、其の功固より孟子の下に在らず。縦ひ偏滞不融の処有るとも、功過独り相準ずべからざらんや」と。其の経を釈するの功、孟子の下に在らずと曰へば、則ち其の学徳の高き、坐ながら知るべし。
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『大和俗訓』巻之八・応接一人常にわが身をかへりみて、わが身に道を求むべし。実をつとめて、外をねがふ心あるべからず。人を責め、外に求むるは、実をつとむるにあらず。論語の内、孔子の言に、人の己を知らざることをうれへざれ、人を知らざることをうれふ。かやうの語、数章あり。其語意、大抵相似たり。聖人しばしばのたまふは、皆人に実を務むることを教へ給ふなるべし。学者の常に心に掛けて行ふべきことなり。

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