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宋名臣言行録 / 前集巻十・胡瑗

師道廢久矣自明道景祐以來學者有師惟先生暨孫明復石守道三人而先生之徒最盛慶歴四年春天子開天章閣與大臣講天下事始慨然詔州縣皆立學於是建太學於京師而有司請下湖州取先生之法以為太學法至今為著令

新字:師道廃久矣自明道景祐以来学者有師惟先生暨孫明復石守道三人而先生之徒最盛慶歴四年春天子開天章閣与大臣講天下事始慨然詔州県皆立学於是建太学於京師而有司請下湖州取先生之法以為太学法至今為著令

書き下し

師道の廢れて久し。明道・景祐以來、學者に師有るは、惟だ先生と孫明復・石守道の三人のみ。而して先生の徒最も盛んなり。慶暦四年の春、天子天章閣を開き、大臣と天下の事を講じ、始めて慨然として、州縣に皆學を立てんことを詔す。是に於いて太學を京師に建て、而して有司、湖州に下して先生の法を取り、以て太學の法と爲さんことを請う。今に至るまで著令と爲る。

現代語訳

師の道が廃れて久しかった。明道・景祐(一〇三二〜一〇三八)以来、学ぶ者に師と呼べる人がいたのは、胡瑗と孫復・石介の三人だけである。そのうち胡瑗の門下がいちばん盛んだった。慶暦四年(一〇四四)の春、天子が天章閣を開いて大臣たちと天下のことを論じ、初めて奮い立って、州にも県にもすべて学校を立てよと詔した。そこで都に太学を建てるにあたり、担当の役所は、湖州に人をやって胡瑗のやり方を取り寄せ、それを太学の法にしたいと願い出た。それが今日まで定めとなっている。

解説

欧陽脩の書いた墓表からの条です。**地方の一学校の運営規則を取り寄せて、そのまま国立の太学の規則にした。**上から制度を降ろしたのではなく、現場で先に立っていたものを引き上げています。しかも、そのやり方は今日まで定めとして残った、と墓表は書く。前の条で泰山にこもっていた三人が、ここで「師のいる学問」の起点として名指しされます。

この章句が説くこと

師道の廃れて久し学者に師有るは惟だ先生と孫明復石守道の三人のみ湖州に下して先生の法を取り以て太学の法と為さんことを請う制度現場標準

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