宋名臣言行録 / 前集巻九・尹洙
文章自唐之衰日淪淺俗寖以大敝本朝栁仲塗始以古道發明之後卒不能大振天聖初公獨與穆叅軍伯長矯時所尚力以古文爲主次得歐陽永叔以雄詞鼓動之於是後學大悟文風丕變
新字:文章自唐之衰日淪浅俗寖以大敝本朝栁仲塗始以古道発明之後卒不能大振天聖初公独与穆参軍伯長矯時所尚力以古文為主次得欧陽永叔以雄詞鼓動之於是後学大悟文風丕変
書き下し
文章、唐の衰えしより日々に淺俗に淪み、寖く以て大いに敝る。本朝、栁仲塗、始めて古道を以て之を發明す。後、卒に大いに振るう能わず。天聖の初め、公、獨り穆叅軍伯長と、時の尚ぶ所を矯め、力めて古文を以て主と爲す。次いで歐陽永叔の雄詞を以て之を鼓動するを得たり。是に於て後學大いに悟り、文風丕く變ず。
現代語訳
文章は唐が衰えてから、日ごとに浅く俗になって沈み、しだいにひどく荒れた。本朝で柳開がはじめて古の道によってそれを明らかにした。しかし後には、けっきょく大いに振るわせられなかった。天聖のはじめ、公は一人だけ穆修とともに、時代の尚ぶところを矯め、力を尽くして古文を主とした。次いで欧陽脩の雄渾な言葉によって、それを揺り動かすことができた。そこで後進の学ぶ者たちが大いに悟り、文の気風が大きく変わった。
解説
古文復興の系譜を、三代で書いた条です。柳開がはじめて明らかにしたが、けっきょく大いに振るわせられなかった。一代目は届かなかった、とはっきり書いてある。二人だけで時代の尚ぶところを矯めたのが二代目。そして三代目の欧陽脩で文の気風が大きく変わった。変えた人の名だけが残りがちですが、その前に届かなかった二代が置かれています。
この章句が説くこと
栁仲塗始めて古道を以て之を発明す後卒に大いに振るう能わず公独り穆参軍伯長と時の尚ぶ所を矯め力めて古文を以て主と為す公独り穆叅軍伯長と時の尚ぶ所を矯め力めて古文を以て主と為す次いで欧陽永叔の雄詞を以て之を鼓動するを得たり古文系譜
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